探訪経緯16-2(恩師・漆戸先生)

赴任前の不安と「日本のチベット」

漆戸先生が静かに語り始めたのは、かつてこの地に赴任が決まった時の複雑な胸中でした。当時の外山は「日本のチベット」と称されるほどの極寒の地。スズラン給食の報道などで貧しい集落というイメージが先行し、厳しい生活環境から「ほいど村」などと揶揄されることもある「陸の孤島」として知られていたからです。

「正直、困ったな。自分に勤まるだろうか……」

先輩教師からも「あそこは2級僻地で勤務は過酷だぞ」と聞かされていた先生は、期待よりも不安が勝るなか、覚悟を決めての着任だったといいます。着任後は寒さだけでなく、劣悪な道路事情にも苦労されました。月曜から金曜までは教員住宅に泊まり込み、週末にようやく帰宅する生活。後に道路が整備されバイク通勤ができるようになっても、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。

赴任前の不安と「日本のチベット」

赴任当初、先生はある種の身構えをしていたそうです。当時は盛岡市内の小学校とは違い、「僻地の学校は教育以前の『しつけ』から始めなければならない」「山猿を相手にしているようで授業にならない」といった偏見が根強くあった時代でした。

しかし、外山小学校の門をくぐった先生を待っていたのは、先輩たちの話とは全く違う子供たちの姿でした。
礼儀正しい挨拶ができ、先生の話を真剣に聞く姿勢があり、時間に厳守で、家の仕事を熱心に手伝い、そして何より、親御さんたちが非常に教育熱心であることでした。

「成績の良し悪しは別としても、盛岡の小学校以上にしっかりとした教育が行き届いている」。先生は驚きを隠せなかったといいます。その後、他の小学校にも赴任されましたが、外山の子らの姿は先生にとって「別格」として心に刻まれていました。

歴史がつなぐものと、教育者の憤り

なぜ、この地にこれほどまでに教育を重んじる土壌があったのか。その答えは、かつてここにあった「御料牧場(皇室の牧場)」の歴史にありました。岩手県や盛岡市が深く関わってきた外山の歩みを今回改めて知り、先生は長年の疑問が氷解する思いがしたといいます。

漆戸先生は昭和8年生まれ。私の母と同い年です。戦後、GHQの介入によって日本の教育は一変しました。先生は中学入学と同時に、戦前の「国家のための教育」から「教育基本法」に基づく民主主義教育へと転換する激動期を、身をもって経験されています。

長年、子供たちに歴史を教えてこられた先生ですが、郷土が近代化において果たした重要な役割を改めて知り、ある種の「憤り」を感じている様子でした。教育の最前線に身を置きながら、これほどの歴史を知らされずにいたことへの口惜しさです。そして、先生はこう締めくくられました。

「明治維新に岩手や盛岡がこれほど深く関わっているのなら、少なくとも岩手県の歴史授業は、もっと地域の近代史から始めるべきではないか」

その切実な願いに、私自身も、そして伊藤家の二人も、深く同感せずにはいられませんでした。

旅の終わりと、突然の訃報

帰路は外山神社、そして外山小学校の前を通過しました。再び天峰山を仰ぎ見ながら、盛岡市内へと車を走らせます。こうして、伊藤勇雄氏と外山御料牧場を巡る「当事者」たちが一堂に会した、極めて密度の濃い旅は終わりました。

しかし、その夜。私の携帯電話に一本の訃報が入りました。「日蓮宗天光結社」の法尼、渡邉妙佳先生がお亡くなりになったという知らせでした。独身時代、劇団活動中に劇団員数名から強引な入信を迫られ苦しんでいた時、宗教的観点から問題を解決してくださり、結婚後も妻共々を救ってくださった恩人です。お通夜は6月29日、東京都府中の東郷寺にて執り行われるとのこと。私は岩手での予定を切り上げ、必ずお伺いしますと伝えて電話を切りました。

明日は、玉山村長・工藤久徳氏への調査報告が控えています。休む間もなく、外山を巡る私の活動は次の局面へと向かっていました。

歴史探索の経緯(続き16-3)へ