探訪経緯16-3(村長への報告と、動き出す歴史?)

盛岡市玉山支所(旧玉山村役場)

教員3年間の重みを鞄に詰めて

前日の熱が冷めやらぬ翌6月26日。私は事前の約束通り、調査資料を詰め込んだ重い鞄を抱えて玉山村役場へと向かいました。村長室に招き入れてくださった当時の工藤久徳村長は、お年のせいか、どこかやつれたようなご様子だったのが印象に残っています。私は担当の産業振興課職員が同席するなか、これまでの調査の中間報告を始めました。

2003年9月に外山調査の開始を報告してから、早いもので3年の月日が流れていました。仕事の合間を縫っての孤独な作業であったこと、そして何より外山御料牧場の歴史があまりに深く、ベールに包まれていたために時間を要した旨をお伝えし、恩師・三浦先生の『百年史』を道標に、私が突き止めた事実を一つひとつ丁寧に説明しました。

• 日本に三か所しかなかった「皇室の御料牧場」の一つでジンギスカン発祥地でもあること
• 東北初の獣医学校が設立された、近代第一次産業発祥の地であること
• 日本短角牛や馬事文化の礎を築いた場所であること
• 「外山節」という文化を育み、宮沢賢治や佐伯郁朗といった文人が足跡を残した場所であること

私は、千葉県三里塚の下総御料牧場や、北海道静内町の新冠御料牧場の視察で得た確信をぶつけました。「外山は日本にとって極めて重要な役割を果たした場所であり、間違いなく地域の活性化に繋がるはずです」と、各地で集めた年表や資料を差し出しながら、40分にわたって力説したのです。

「形」なき歴史と、合併という現実

村長は、かつて外山に御料牧場が存在していたことは知っていたものの、これほどまでに歴史的意義がある場所だとは認識していなかったようでした。しかし、私の熱弁に対し、その反応はどこか消極的なものでした。

「……何か、当時の痕跡は残っているのですか」産業振興課職員の問いに、私は「残念ながら、今は全く何もありません」と答えざるを得ませんでした。形ある遺構は残っていない。しかし、下総や新冠にはその痕跡があり、外山に刻まれた歴史の重みも計り知れないものがある――。

私は、地域の活性化施策として、まずは専門家同行のもと千葉県の三里塚記念館や北海道の新冠牧場を視察し、本格的な調査を行うよう強く進言しました。そんな私の思いとは裏腹に、村長の口から語られたのは、予想だにしない現実でした。

「実は今年の1月に、玉山村は盛岡市との合併が決まったのだよ」
今後10年間の玉山村は「玉山区」となり移行期間を終えたのち、完全に盛岡市へと統合される。それはすなわち、玉山村という自治体そのものが消滅することを意味していました。

「検討」という言葉の裏側

一瞬、寂しさが胸をよぎりました。しかし、私の頭にはすぐさま別の考えが浮かんでいました。
「合併するなら、これはむしろ好機ではないか」盛岡という大きな枠組みの中で、外山の歴史を再定義できる。かつて日本を牽引した外山の物語を、より広い世界へ発信できるはずだ。そんな根拠のない自信が、私の背中を押していました。

辞去する際、同席していた担当職員の方から「本当にご苦労様でした。貴重な資料をありがとうございます。内容を精査し、関係者と検討してぜひ役立てたいと思います」と言葉をかけていただきました。

「市が検討する!」その一言が、当時の私にはこの上なく嬉しく、耳に残りました。これで活性化の扉が開かれる――天にも昇る心地で役場を後にしたのです。

この時、私は「検討」という言葉の意味を、文字通り前向きな約束として受け止めていました。それが、含みを持ったものであるとは知らずに。

その真意を私が知ることになるのは、これから7年後。外山種畜場・板垣場長の子孫であり、盛岡市議会議長を務めた下田靖司氏から教えを受けてからのことでした。

祝杯の後に届いた知らせ

私は一週間の帰省予定を切り上げ、27日には妻の待つ古河の自宅へ戻りました。「調査に時間はかかったけど、市が検討してくれるって!」と報告し、肩の荷が下りる日を確信して妻と祝杯を上げました。

しかし、休息の時間は長くは続きませんでした。
翌6月29日。私は妻を連れ、お世話になった「日蓮宗 天光結社」の法尼であられた渡邉妙佳先生のお通夜へと向かいました。会場となった府中の東郷寺。そこで私は、またしても想像を絶する「とんでもない出会い」に愕然とすることになるのです。

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