藤波 言忠

藤波 言忠

藤波 言忠【ふじなみ ことただ】1853~1926

  • 明治時代の華族(旧公家)、子爵。
  • 明治天皇側近。京都生まれ。広橋胤保の子。藤波教忠の養子。
  • 天皇の学友として七、八歳のころより宮中に出仕した。
  • 明治七(一八七四)年一月宮内省九等出仕となり天皇の講学に陪席した。
  • 明治十年(一八七七年)侍従試補に、明治十二年(一八七九年)には侍従になる。
  • 明治十七年(一八八四年)七月八日に子爵を授かる。
  • 馬に対しすぐれた鑑識眼があり、新冠牧馬場御用掛などを経て、明治十八年七月には御厩制度等調査のため欧米に派遣された。
  • また、滞欧中オーストリアでドイツ人学者スタインの講義を受け、帰国後明治二十年十一月より天皇、皇后に憲法学を進講している。
  • 明治二十年代以降、下総御料牧場、新冠御料牧場、外山御料牧場充実拡大し馬産界の発展に尽くす。
  • 明治二十二年七月より大正五(一九一六)年一月まで主馬頭を勤め、また日露戦争前後の馬政の中心人物として、馬券黙許の競馬開催の実現や馬匹改良三十年計画の推進にも努めた。
  • 明治三十七年宮中顧問官となる。
  • 明治天皇・昭憲皇太后両方の崩御の時にどちらとも大喪使事務官を務めた。翌年に延期された大正天皇の大礼使車部長を務め、大正五年(一九一六年)に主馬頭を辞め、宮中顧問官・貴族院議員になる。
  • 同年に明治天皇皇紀の編修に尽くした。しかし言忠は明治天皇皇紀を完成する前に同十五年(一九二六年)五月二十五日に死去。享年七四。馬の鑑定に長じ、また和歌を好んだ。
金華山の為に讀まれたるもの

大君の玉のみくらにかさられて
   人にもまさる馬はありけり

外山御料牧場にて

山の端はいつしか晴れて久方の
   雲の上にいづる駒の一むれ

二歳掫駒の際馬主の心中を察して讀めるうた

育てあげし駒売らん時になりぬれど
   引き出しかぬるわか思かな