スズラン給食秘話

スズラン給食

『外山小学校創立百周年記念誌』
昭和62年8月2日発行

『蛍雪の百年 そとやま』
旧職員の手記:石川 浩司
在職年月:昭和36.04.01~昭和41.03.31

外山小中の子供達の代表と共に、仁王小学校日赤病院分室の病室や、盛岡駅とバスセンターの待合室に、スズランの花を贈る奉仕活動をすることにしていた昭和四十年六月二十日(日)の朝のことであった。

読売新聞社名入りのジープを運転して来た男に、五時三十分頃にたたき起こされた。「今日スズランを届けることにしている学校は、こちらの学校ですか。お迎えに来ました。「はい、そうですが、どちらから聞きましたか。私達は一番のバスで行くことになっていますので、子供達は七時三十分までに学校に来ます。「それでは、それまでかなり時間がありますので、その辺にわらび採りに行ってきます。七時三十分までには戻ります。細かく確かめる間もなく、彼は近くの山にあわただしく出かけた。

この奉仕活動は、ここ数年、伝統的に続けられその都度岩手日報などで報道されてきたものであるので、今年は読売新聞が密着取材をするのかと推察し、あまり気にもとめなかった。七時過ぎ、子供達の代表が登校し始めたので、前日こん包しておいたスズランを、運転手のいないジープに積み込ませ始めた。そこに、わらびを片手いっぱいに抱えた運転手が帰って来て、「花巻空港までは時間がかかるので、全員そろったら早めに出発しましょう。」という。

「花巻には行きませんよ。行くのは、日赤と盛岡駅とバスセンターだけです。「えっ、こちらは藪川小・中学校さんでしょう。「いいえ、外山小中学校ですよ。藪川さんは、ここから更に三十分ぐらい入ったところですよ。」「あっ、大変なことをしてしまった。こんな物は急いで降ろしてください。とスズランのこん包を指さす。

「子供達の善意の包みを、こんな物とは何事だ。」と努鳴り返しながら、子供達と共に包みを降ろし終えると、ジープはものすごい勢いで、藪川に向かった。私達の乗った外山小中学校前七時四十分発の中央バスが外ケ畑でトイレタイムを取っていた頃、例のジープが、藪川小中学校の宮校長と子供達数人を乗せて、爆走しながら追い越していった。

翌日の読売新聞の全国版に、「辺地給食ありがとう藪川小・中学校スズラン手に佐藤さん出迎え」という大見出しと、花巻空港で佐藤首相に花束を渡す女生徒の写真と、それに関する記事が大々的に掲載されていた。その概要は次の通りであった。

「玉山村藪川は、盛岡市から四十キロも離れた辺地。ヒエ、ムギ主体の畑作農業で、現金収入は少なく、自作のヒエ、ムギを主食とする家庭が多い。このため、中学や小学校高学年になると『ひえめし弁当』を恥ずかしがって持参しない。子供達の栄養を考えた同校は三年前からミルクだけの給食を始めたが、宮校長は完全給食によって救おうと運動を始めた。

この話を聞いた盛岡ライオンズクラブ会長吉田孝吉さんが東京十二地区ライオンズクラブに連絡、完全給食設備に必要な経費約五十万円(半額国・県補助)のうち十二万円を同校に寄付した。残りの十三万円も、ライオンズクラブ会員から募金することになったが、同校中学生が相談し同地方のスズランをクラブ会員に買ってもらおうという『スズラン給食運動」を展開した。

その最中の去る十五日、佐藤首相が閣議で、辺地校の給食費に五億円の国庫補助を指示するという朗報が届いた。全国辺地校を代表して首相にお礼したいと、参院選応援のために特別機で花巻空港に降り立った首相の手にスズランの花束を送った。ジープの運転手が急いで届けようとするスズランは、山の子に寄せた人の善意に御礼するためのスズランであり、その運転手に「こんな物」と言われたものは、入院患者や旅行者の目を楽しませようとする山の子の善意そのもののスズランであったのである。

私が夫婦で僻地教育を志願し、外山小に赴任したのは、昭和三十六年四月、爾来五年間、教育実践の中核に据えたのは「自立心の育成」であった。その端は、赴任当時に、慈善団体から贈られた漫画本やバトミントンのセットを、その由来をたずねることもなく、奪い合うようにして楽しんでいる子供達の姿を目にしたことから発する。

「人の施しを当たり前とするところに外山の創造はない。この子供達に必要なものは、欲しい物は自分達で働いて手に入れるというたくましい自立心と、更には、逆に施し奉仕していくことまでできる豊かな自立心だ。と考え、実践の中核とした。

子供達はたくましい自立心(わらび採り)で、盛岡見学バス旅行を、そして宮古修学旅行を実現した。「こんな物」は豊かな自立心の現れであったのである。藪川のスズランは確かに当時の藪川の子供達の血肉となったであろうが、外山のスズランは、今の外山の若者達の心の糧となっているであろうか。