アザリア記念会 会報 第26号 – 寄稿

アザリア記念会 会報 第26号

「嘉内と賢治と外山高原」

外山御料牧場・開拓研究会 中村辰司

 私が昭和39年から53年まで暮らした外山は、盛岡市中心部から約28㎞、標高800mの高原にあります。本州一の寒冷地で、霜の降らないのはわずか夏の三か月だけ。冷害の常襲地で「日本のチベット」「陸の孤島」と呼ばれ、差別や偏見にさらされました。私は「中学を出たら二度と戻るまい」と心に誓っていたほどです。

 転機は平成7年。旧玉山村村長から地域活性化の相談を受けたこと、そして池上雄三著『宮沢賢治心象スケッチを読む』に出会ったことでした。その本に描かれた外山は、私が知る厳しい現実とは正反対の、夢と希望にあふれる世界でした。

 大正4年、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)の学生だった宮沢賢治は外山を訪れ、雪解けの大地や人々の営みに心を奪われました。大正9年、親友の保阪嘉内に宛てた手紙に「外山の四月をあなたは見なかったでせう」と記し、その言葉は私に「外山の真の姿を知らないのでは」と問いかけてきました。そこから、賢治と嘉内、そして私の知らない外山を探る旅が始まったのです。

 嘉内は大正5年に盛岡高等農林へ入学し、賢治と同じ寮で生活しました。当時、外山には「外山御料牧場(のち下総御料牧場外山分場)」がありましたが、歴史資料はほとんど在りません。

 外山の開拓は明治9年「岩手県営外山牧場」から始まります。ここは西洋式農業・畜産・獣医学を導入する拠点であり、明治24年に宮内省へ移管され「外山御料牧場」と改称。小岩井農場の支援も担いました。「御料」とは皇室に関わるものを意味し、薮川外山地区は内閣から独立した宮内省直轄の機関となり、治外法権的な性格を帯びました。関係者以外の立入は禁止、住民にも守秘義務が課されました。

 日清・日露戦争の教訓から軍馬改良が急務となり、外山御料牧場を中心に種馬育成所、種馬所、軍馬補充部六原支部、馬検場、黄金競馬場、騎兵第三旅団、そして高等農林学校と馬事関連の施設が設けられ国家規模のプロジェクトが展開されます。こうして日本は短期間で馬の改良に成功しましたが、大正11年、戦後不況による緊縮で御料牧場は閉場。宮内省直轄ゆえ歴史資料は公になることはなく、私たちの先祖も守秘義務を守り、外山の歴史は世に伝わらないまま封じられました。

 この特別な地を実際に訪れ、詩に刻んだのが賢治であり、その情景を嘉内に贈ったのが「外山の四月のうた」です。宮内公文書館に残る「外山分場旬報」には高等農林獣医科の学生が実習に訪れていた記録もあります。賢治がその一人であったのかは不明ですが、守秘義務が課されていた可能性を考えると、この書簡は私の探究心を強く刺激しました。

 平成22年5月、嘉内のご子息・庸夫氏宅を妻と一緒に訪ねる事ができました。初対面にもかかわらず、温かく迎えていただき、嘉内の生い立ちや、甲府中学で大島正健校長(札幌農学校の一期生)に影響を受け札幌農学校を志すも不合格となり、翌年盛岡高等農林で賢治と出会ったこと、大正7年に「アザリア」への寄稿が問題となり除籍された経緯、大正10年の対話劇「蒼冷と純黒」の背景など、多くのことを伺いました。

さらに、「外山の四月」の手紙を撮影させていただいただけでなく、雨の中、墓石や歌碑まで案内してくださったご厚情に深く感謝しています。外山に関係する人々のつながりに大島正健が加わり、関係性がより鮮やかに浮かび上がった瞬間でもありました。

 「蒼冷と純黒」を執筆した頃、賢治は嘉内と御料牧場で共に働きたいと願っていたのではないか。それは親友の名誉を回復させたかったのではないか。そんな想像も浮かびます。しかし大正11年、賢治の妹トシが亡くなる直前に御料牧場は閉場となりました。

 外山高原には明治の開拓以来、多くの人々が歴史を紡いできました。岩倉具視や大久保利通、伊藤博文ら明治政府の要人が近代化を指導し、西洋の農業・畜産技術を導入した札幌農学校(M9)、駒場農学校(M11)、外山獣医学校(M12)が相次ぎ創設され、その一期生たちは日本の農業近代化を担う人材を育成しました。その理念は賢治や嘉内にも受け継がれます。

 大正から昭和にかけて、武者小路実篤の「新しき村」、嘉内の「花園農村」、賢治の「羅須地人協会」、伊藤勇雄の「人類文化学園」など理想郷運動が現れました。その根底には御料牧場の理念「経営は自ら模範たるべし」「補助金に頼らず自給自足すべし」「牧畜を通じ人材を育成すべし」が流れていたのかもしれません。

 戦後、賢治の精神を受け継いだ藤原嘉藤治宅に高村光太郎や伊藤勇雄(「新しき村」村民)らが集い、日本と岩手の未来を語りました。伊藤は薮川外山の開拓に加わり、69歳でパラグアイへ渡って「人類文化学園」を築きました。その思想は嘉内の「花園農村」と深く共鳴を持つものと感じました。

 忘れられた地・外山。しかしそこには近代日本を築こうとした人々の理想と、賢治や嘉内の青春の息吹が確かに残されています。外山の風に耳を澄ますと、今も彼らの声が聞こえてくるように思えるのです。

 最後に。撮影させていただいた「外山の四月」の写真は、外山小学校が閉校するまで来客出入口の壁に飾られました。賢治が嘉内に伝えたかった情景を庸夫氏に見ていただく外山を案内するお約束でしたが、東日本大震災でお連れできなかったことが今も悔やまれます。庸夫様の温かなお心遣いに、心から感謝申し上げます。