戦時中の緊急開墾の頓挫
昭和19年(1944)戦争末期の食糧増産が急務になった政府は「一坪の土地も無駄にするな」と未利用地活用運動展開します。初夏の6月、中央政府の高官が来県。放牧地・家畜の採草地を見た役人が「岩手は未利用地が多い、この広い空地を開墾し開田を始めよ」。牧畜が何かをも知らず気候風土も無視した未利用地活用の間違った開墾が外山で始まります。
昭和20年(1945)4月県令の緊急開墾が発令。外山1000町歩を開墾する為、食糧増産隊と学生動員が、外山の山道を登り御料牧場時代の畜舎二階の乾草置き場を宿舎に集団開墾を開始します。牧草地を開墾し大豆、ソバ、馬鈴薯を作付けしました。
5月外山高原一帯に笹が咲きました。笹の花が咲き、実がなる年は「飢饉が起きる」「不幸の前触れである」といった言い伝えが残されていますが………。※飢饉の時、笹の実を食べて飢えを凌いだという話は聞いていましたが、戦時下で食糧が無い時代、薮川地区では妊婦が笹の実をたべた事で流産したという話が残っています。
8月初旬 外山高原に初霜が降り、5月に作付けした大豆、ソバ、馬鈴薯は被害を受けました。標高700mの寒冷地。改めて外山の洗礼を受けたかたちになり終戦で「未利用地活用運動展開」は頓挫。しかし、戦後の食糧開拓として「緊急開拓事業実施要領」に名称が変わりますが、失敗したにも関わらず農作物中心の事業は受け継がれます。
新天地を求め「畜産大国」の復活を夢み、薮川外山に入植した開拓民
昭和20年(1945)8月15日 ポツダム宣言受諾、終戦。占領軍(GHQ)は国内の諸制度は根本的に改革を要請。馬政上についても、10指に余る大変革が行われた。
それにより国有種雄馬の減少、種馬所の廃止、官民牧野の農地開放、馬事中央及び地方団体の解体、文献の煙滅等は、馬とともに歩んできた外山にとって馬事産業の消失は大きな打撃でした。
昭和20年(1945)11月 政府は「緊急開拓事業実施要領」を決定。外山の戦後の食糧開拓がはじまります。ただし、官民牧野の農地開放された場所それが、旧御料牧場の事務所・官舎・貴賓館があった皇室の神聖な場所。蛇塚部落になります。
昭和22年(1947)から蛇塚に開拓入植者を受け入れ開始。地元外山の二、三男対策で12戸が入植。
昭和25年(1950)徳田分村村長の谷村長三郎氏に勧められ二、三男が10戸入植。
昭和27年(1952)煙山村から伊藤勇雄入植、東磐井郡より6戸、沢内村から深沢勘一氏ほか6戸入植。
その他、北海道・雫石・二戸と各地から入植し合計46戸が入植します。
昭和22年~25年に入植した開拓者は「藪川高原開拓農協組合」を、昭和27年に入植した開拓者は「藪川村開拓農協」を、それぞれ組合を結成し開拓を始めます。
入植当時は全国各地から集まったため、意志の疎通を欠き、疑心暗鬼となり利害の対立を生み、又肝腎な我々の指導も一貫性を欠き、要らざる確執も多く苦労の連続であった。しかし、皆も馴れくるに従って開拓地内は共同体で行かねばならない事に気づき、組合の違いを超えて離合集散を重ね年中行事も和やかに行われるようになっていきました。そして、開拓解散時の昭和44年12月まで開拓地に残留した開拓者は29名でした。
【藪川高原開拓農協】
佐々木清人、赤石万次郎、佐々木スミ、舘春藏、白沢菊治郎、工藤権三郎、島川七太郎、川村松太郎、川村幸三、川村竹治、中村新八、白沢與藏、橋本初太郎、橋本安吉、細川正、藤原寅蔵、小林清太郎、佐藤直八、沢口春吉、以上19名
【藪川村開拓農協】
伊藤東雄、深沢勘一、佐藤圭、渡辺正二、高橋善次郎、藤原利太、佐々木五郎、佐々木常保、伊藤馨、菅原慶、以上10名。※外山蛇塚に設立された顕彰碑「夢なくして何の人生ぞ」の裏に刻まれた開拓者名
藤原嘉藤治が激怒した「地獄の薮川外山開拓」
藤原艶子(嘉藤治氏の御子息の奥様)さんは、一度も外山には行った事が無いとの事で、開拓の碑がある蛇塚にお連れした時、当時の事をお話してくれました。岩手県の開拓者連盟委員長を務めていた藤原嘉藤治は、冷害の被害状況視察の為、外山に訪れていたようです。宮沢賢治が外山地に訪れてから約35年後。
外山以外にも県内各地に移住した開拓地の状況を確認して回ったそうです。その時、ある開拓地に訪れた時、開拓移住民から「開拓前と話が違う」「騙された」「こんな所だと思わなかった」等々の不平不満を投げつけてきたそうです。
その時、嘉藤治は「自分で納得し選んだ開拓地ではないのか?あなた方が地獄の開拓といっている薮川外山開拓より環境が良いにも関わらず極寒地で冷害被害に遭いながらも必死に開拓している薮川外山の開拓者に対し不平・不満ばかり言って同じ開拓民として恥ずかしくないのか?」と言ったそうです。他の地区でも同じような事があり、その後、文句を言う開拓民はいなかったそうです。それだけ薮川外山地区は「地獄の開拓」と知れ渡っていたようです。
宮沢賢治と戦後開拓
宮沢賢治と土壌改良(タンカル)
開拓、それは我々農民に対する夜明けの鐘であり、剛健なる開拓精神は農民に課せられた天の試練でもあった。
昭和の初期(6年)、東北・北海道を襲った凶作は当時の農民社会に大きな打撃を与えた。そんな中で、地の人・宮沢賢治はひたすら農民の福祉を願い、東北農民の悲願ともいうべき土壌改良と農業技術の改良に献身した。
「雨ニモマケズ」………の詩はこの年(昭和6年11月)に作られたものであるが、彼は自ら農民の中にとけ込んで、叢の一人として貧農民と共に生きる精神を示し、その行為は奉仕と献身という態度で表現されている。
戦後、日本の食糧事情は言語に絶する悲惨なものだった。この窮局を打開したのは、正しく我々開拓者に宿る不屈の精神である。4分の1世紀を経た現在、あの生活の苦労が忘れ去られようとしているが、そうであってはならないことだ。
「雨ニモマケズ」・・・・・・奉仕と献身、この精神は今こそ必要ではあるまいか。この写真は土壌改良資材としての石灰を造る工場(現在の東北タンカル工場)工員等と共にその研究に献身され、いつも農民の幸わせを望んでおられた時のものである。すなわち、宮沢賢治は土壌改良薬(タンカル)を造った先駆者でもある。