川村 竹治(入植の想い出)2

入植の想い出川村竹治

入植後の経緯と体験手記

伊藤 勇雄 夢なくして何の人生ぞ

いよいよ昭和二十五年五月二十五日、外山入植の当日がきた。当初は二十数人との話だったが最終的に先発隊として十人だけだった。

徳田農協の大型トラックに荷物を載せ準備が完了したところで谷村(たにむら)村長さんから強い励ましの言葉を頂き、全員トラックの荷台に乗り大勢の見送りの人達に万歳万歳を受けながら別れを告げて七時半頃出発したことが、半世紀過ぎようとしている今でもはっきりと想い出される。

盛岡を通過し庄ヶ畑を過ぎた頃から道が次第に悪くなり穴だらけ、今では想像もつかない程の悪路だった。蛇塚に着いた時は正午を過ぎ四時間以上もかかった。荷物を芝草の上
に降ろした。種馬育成所の宿舎として使用した建物は長屋に似た造りで私等にとっては絶好の住まいだった。

私と川村孝三氏二人で一部屋、川村松太郎氏、川村泰三郎氏、加藤嘉男氏三人で一部屋、佐藤直八氏、広田喜助氏、佐藤進氏三人で一部屋、細川正氏、藤原寅蔵氏二人で一部屋、以上四部屋を宿泊部屋として利用。物置として一部屋、それに郷里からの来客用として一部屋、計六部屋使用した。外山人としての一歩が始まったわけだ。

日が西に傾き電気がない事に気付きランプに油を入れたり夜の準備をし、其の晩は家から持って来た餅やら皆んなで色々な食べ物を出し合って食べながら話が尽きなかった。其の時炊事を当番制にし三日交代と決め其の当番員は明かりの準備から風呂も沸かす事などを決め、寝る時は夜中だったと記憶している。そうして十人の共同生活が始まった。

ここで紹介するが、出発前に村長からの推薦で開拓団長は佐藤直八氏、副団長は広田喜助氏と決められていた。彼等は二人とも高等二年の卒業式直前の三月初め、満州国に開拓義勇軍として十四、五歳の若さで志願して郷里を離れ海外に渡った二人だ。そして、終戦で二十二年に五年ぶりに帰って来た。

話は変わり本題に入るが六月中旬頃、仙台の東北事務局から測量隊六人一行が現地に来た。同じ建物内の広い部屋のある所を使用した。其の晩測量するに当たり色々な説明を受けた。まず一番に人夫を二十人以上探す事、測量隊に食事の材料の心配とか炊事洗濯をする人を探す事。翌日皆んなで分担して人探しに部落に行き何とか十数人見つけて来た。其の時炊事婦も見つけ名前は伏せるが、後に入植者の奥さんになっている。そうして測量が始まった。人夫賃は当時としては高い事もあって、十数人から二十数人になるのに時間がかからなかった。

測量の内容は農地、採草地、山林等の区分と農地一戸当たり五町五反歩四十八分等の図面作成の為の測量だった。縦は飯盛山から、蛇塚の伊藤さん宅の辺(あたり)、横は小左衛門の赤石万次郎さんの畑の中腹から大石川の中腹だったと思う。百間隔に方眼紙状に伐採し測量した。お盆の何日かを休み、九月中ば迄約三カ月間におよびそれは大変だった。でも開拓地の図面がこうして出来上がるのは楽しみでもあった。

測量は終わり、ほっとしたところで自家発電を作ってみようという話になった。早速資材の購入のために盛岡に下り、車のダイナモ、バッテリー、電線、電球、ソケット等も買って来た。翌日工事にかかった。私と孝三氏は水車作り、他の人達は建物裏を流れている小川を堰き止めダムを作る。二日がかりでどちらも完成した。いよいよ電気を点灯する事になった。

スイッチを入れた。パッとついたが懐中電灯の光と同じで部屋全体明るくとはいかず期待はずれだった。数日後、岩手日報社からカメラマンと記者が来て取材して帰って行き翌日の朝刊に、「徳田村開拓団自家発電」との見出しで大きく記載された。でも様々なトラブルが多くて長くは続かなかった。

入植の想い出川村竹治

秋が深まり次第に寒くなって来た頃、佐藤進氏が現地の生活に耐えかねて外山を下った。私達は皆んなで冬は炭焼きをやる事で、赤石万次郎氏の親父さんを頼んで炭窯作りから焼く技術を教わった。窯は三基作り、炭を焼く事が出来た。それで現金収入を得た。

寒い冬が過ぎ春が来た。其の時共同生活をやめ、配分地を決めてめいめい自分の土地を開墾する方が良いと判断し、話し合いで好きな場所を決めた。

蛇塚平の一番近い場所の配分を受けた加藤嘉男氏が一カ月もたった頃、開墾する気力がなく、ついに辞めて下った。其の後地に伊藤勇雄氏が入植した。今度は配分地迄通うのに遠くて大変だという問題だった。仮小屋を作るか家を建てるかで迷ったが、家を建築する事にした。早速工事にかかった。九月末に出来上がった。其の年は私と松太郎氏と孝三氏、泰三郎氏の四戸が建てられた。ところがどうした事か泰三郎氏は新築した家には住まず離農。其の翌年も四軒家を建てた。其の後に広田基助氏が病気のため倒れ死亡する。

村では二次三次と募集したが希望者はなく、私等から援助の手を引いた。仲間が減り寂しい気持ちだった。でも此の間の二年間に郷里から演芸部の方々の慰問団が二回も来てくれて娯(たの)しませてくれた事が想い出に残っている。

そして、明けて二十七年伊藤勇雄さん先頭に東磐井から八人と沢内から八人の十六人となり、俄(にわか)に賑やかになった。其の後は皆んな一緒に暮らしたので覚えていると思うので、此の辺で体験談は終わるが、私の歩んだ時の年齢を紹介する。

学校卒業して大工の弟子入りする時の年齢は十四歳と八カ月、開拓に入植した時の年齢は十八歳と九カ月、二十六年十二月吉日女房と身内だけの結婚式を徳田の実家で挙げた時の年齢は二十歳と四カ月。現代ではとても考えられない事で、あきれるばかりとよくもこの若さで頑張ったなと思っているしだいだ。

永らえて拘いた過去の夢と遇う 
過ぎし日の耐へた苦労は若さから

最後に外山の益々の発展と皆様方の多幸をお祈り申し上げます。

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