川村 竹治(入植の想い出)1

25年春入植徳田分村の同志 入植の想い出川村竹治
25年春入植徳田分村の同志

入植前の経緯と決心まで

伊藤 勇雄 夢なくして何の人生ぞ

大東亜戦争も終わり世の中は落ち着きを戻しつつ何とか平和の安堵感を持つ頃、昭和二十一年春旧徳田村立国民学校の八年間の学校生活の課程を修了し、其の時日本は貧底(どんぞこ)で就職先などあるはずもなく、私の同級生男女百十数人、其の内の身内による手蔓(てづ)る等で当事の国鉄に入社した人二人、同じく手蔓るで役場の職員に二人、其の他これといった就職先などない時代だった。

私も四男坊、いつかは家を出なければならない身上、それで何か手に職をと思い大工を志し、其の年の二十一年春四月十日見習いとして徳田村でも有数の棟梁に弟子入りし当初はもちろん小遣いにも足りない日当二円を頂き働いた。一人前の職人で二十円ぐらいだったと記憶している。道具を買わなければならない、仕事に通うのに自転車もほしい、中古で百五十円ぐらいだったと思う。半年余りかけてためたお金で自転車をやっと買った事が思い出される。

月日が流れ四年が過ぎた頃、徳田村では二、三男対策として外山御料牧場跡地を解放して分村計画を企てている話が流れた。そして分村の入植希望者は現地を視察に五月五日に行との連絡があり、私も行って見てこようと決めた。視察に行く前日、師匠にうその言い訳をして休みを頂き当日参加した。

六時半頃役場前に集合し、七時頃のバスに乗り現在の中央通りのヒノヤタクシーの所がバスの終点で、そこで降り歩いて、上盛岡駅迄行き、山田線の列車に乗り腰をおろす間もなく発車した処、山亦山トンネルが多く登り勾配のため、それに機関車が本線のより小さい事もあって走って追い付けると思う程スピードが遅くなる事もあったように記憶している。そして山々の風景を眺めている内に大志田駅に着き全員降りた。

すると案内の方が「いよいよ登山が始まるぞ、郷里の南昌山登山と思って登れ」と話し、細い道を右に曲がり左に曲がりながら急な坂を四十分程かかり登ったら勾配が穏やかになった。十数分も歩いた時チョロチョロと水の流れる音がした。「おおい、皆んなここで一休(いっぷく)するぞ」と前の方で叫ぶ声がした。芝草の上に皆んなで腰をおろした。

丸太を削った桶先から水が流れ落ちていた。そこに空き缶をきれいに洗って備えてあった。皆んな喉(のど)が乾いていたので順番に水を呑んだ。其の時の冷たくて、うまいと思った水が今でもはっきり覚えている。「出発だぞ」目的地にむかって歩き、こんどは穏やかな下り坂、わけもなく外山ダム旧小本街道に出た。途中何軒かの家で天気もよい事もあって、外に馬を出して日光浴させ、生まれたばかりの子馬が走り回っている光景が二、三あったほか、時季的に早い事もあって外で仕事をしている姿は見られなかった。

目的地の蛇塚に着くと馬屋とか宿舎等を一回り見て休む暇なく開墾地を見てこようと、北の又、大石川、泥川の順で一回りした。昼食をとりながら皆んなの話は様々で、「こんな所でのんびり暮らすのも良いなあ。いや、交通の便が悪くて大変だぞ」色々な意見や空想いた話やら様々だった。

私は其の時、頭に封建的な師匠や兄弟子の所から放れて自由になりたい気持ちと、広々とした原野、そして空気がうまい、水がうまい此の地で開墾するぞ、と十八歳八ヶ月の私でしたが堅く決心したのだった。そして二時半頃だったと思うが蛇塚を跡にして帰途についた。

この決断乱れし心胸に秘め

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