開拓の想い出の記
入植された方々の寄稿文
汗と涙で綴る想い出の手記
五十二年頃から缶コーラやジュース缶の自動販売機が普及し、県道わきに空き缶が目に付くようになった。あまりにも汚れが目立つので部落内の缶拾いと清掃を提案した。他人の飲んだものを拾うなんてと大反対された。しかし、部落内が汚れていれば空き缶を捨てるのも気にしない人が多く成るので是非とお願いをし実行した。
このことを村内学習実践発表の時にスライドを使って発表した。あれから二十年、子供達に自然環境を守る心が育ち、作文コンクールでは国の表彰を受ける子供達もでてきた。歴代の会長さんの元、今尚続いている事業である。
昭和五十二年、畜産振興と椎茸の栽培も手掛けた。先ず畜産振興であるが、酪農は渡辺正二さん、深沢さん、工藤さん達が中心に成り苦労しながらも成功され毎日大量の乳を出荷された。
一方短角種については導入されて以来、子取生産を続けた。春出産し秋に市場に出し、生産者が自分で値段を付ける事も出来ず、安い価格で取引されていた。特に五十二年頃は、一段と価格が下がり、一頭当たり一万五千円、二万円で取引され、生産者もあまりにも安い価格で親牛を手放す人もでてきた。
そこで、岩手県畜産試験場外山分場の三又分場長さんを訪ね、畜産の振興について御指導を頂いた。先ず子牛の体の大きな、体重の重い牛を生産する事。それには親牛の改良から手掛けるべきであると御指導を頂いた。
当時秋の市場に上場する子牛は、春に生まれた子牛で小さい牛は体重百三十キロ、大きい牛は二百キロ前後で上場されていた。短角農家を集め、外山肉牛改良振興会を発足させ、改良に取り組んだ。外山部落内の農家を廻り親牛選定から始め、基礎牛五十頭を選び、基礎認定牛とし飼養管理についても取り決めした。
牛の改良には早くて十年も掛かると言われていたが、出来るだけ早く成果を上げたいので、短角種の人工授精を始めた。短角種の人工授精は県下では岩泉町安家で一人行っていた。早速授精師を外山へ呼んで講習会を開いた。その後、国の事業で集団育種事業が始まり、外山で早速同事業に参加した。
外山分場長さんを中心に改良についての勉強会、又毎年放牧地に来る種牛についても滝沢の本場まで行き、最良の牛を派遣して下さる様お願いした。五年目頃から成果がでてきて、体重も二百五十キロもの子牛が産まれ、市場でも見直され始めた。集団育種事業も軌道に乗り、体型と血統の良い子牛は、将来種牛に成る候補牛として買い上げされるまでに改良が進んだ。
牛の改良の進み具合を見るのに、子牛共進会がある。日本短角種の全国共進会は四年に一度各県持ち回りで開催される。一度目は青森県十和田市で開催され、岩手県代表として当外山から佐々木清人さんの牛が出品されチャンピオンに輝いた。この事で改良に一層の熱が入り、四年後の秋田県で開かれた時には県代表として外山から四、五頭出品され上位入賞した。八年後北海道で開催された時は、「純外山産」の牛が三頭出品され、チャンピオンには入れなかったが上位入賞を果たした。
改良事業に着手して二十年、分場長さんを始め分場の皆さん、振興会の皆さんの努力が、大きな成果として実を結んだ。しかし外国から安い輸入肉が入り、短角種の価格が一段と厳しく成り今日に至っている。あの生産者の努力は一体何だったのだろうと思う。
次に椎茸栽培について記しておきたい。五十二年頃製紙業界は大不況となり、紙の原料となるパルプは、引取先が無くなり山奥に何千石、何万石も山積みされていた。当地のように山を相手に用材を切り、細い枝はパルプ材として切り出し、その後に植林して山と共に生活をしている人達にとっては大変な事態となった。
パルプとして売れない木の活用法は無いかと、各方面の方々に聞いた。岩手県産会社に知人がいたのでその話をしたなら、会社では椎茸を大量に買い付け、お土産用に箱入れして売り出し、又最高級品のドンコは香港に輸出しているので大量に買い取るとの事で、早速地元に帰り皆さんと相談をした。
しかし、山仕事が無くなり、生活が苦しくなっても初めての事業に手を出す人は少なかった。ある人からは「自分でやって見て儲かるなら他人に勧めろ」とも言われ、新しい事業とは大変な事だと考えさせられた。それでも何とか五、六人の人が茸作りを始めようかと集まり、県の林業試験場に行き、実際に椎茸を作っているところを見学した。
原木を切り出し植菌した。一年経っても茸がでてこない。二年目も出て来ない。皆さんからは「騙された、騙された」と毎日のように言われた。家内と二人で自分の家の茸が出なくても、皆さんの家の茸が出るように心から念じた事もあった。三年目の春大きな茸の芽が出た。冬には原木を切り出し、春に植菌することを毎年続けた。五十四年には乾燥施設を国庫補助で導入し、自分達で乾燥まで仕上げた。
毎年原木用の山を払い下げ、切り出し運搬、雪の中の作業で色々な事があった。何度もやめようかと思ったが補助事業で機械が入り会計検査が終わるまではと努力した。六十年全農乾椎茸品評会において林野庁長官賞を受賞した。あれから二十二年、輸入物におされ、価格が低迷しているが今も続けて栽培している。大きな事業は私の力では出来ないが、小さな事を一つ一つ積み重ねれば、やがて大きな成果となる。
今齢(よわい)七十歳になる時、開拓の想い出の本を出版するにあたり、入植から今日まで、想い出し又書く事により、自分の歩いた道程が解る。若い時から今でも深沢さんをはじめ先輩の皆さんに楯つき、自分の思いを通してきた。叔父伊藤勇雄の教えを忠実に守り、人類文化学園などと大それた夢ではない、自分の住む部落「外山」をどうすれば住み良いところに出来るか。二十七年夢と希望を持って入植し血の出る思いで働いてきた。叔父勇雄氏の部落作りは荒削りで終わった。
酪農をはじめ畜産、岩洞湖開発、漁業権いずれも、手を付けたばかりであった。前述の通り、畜産や漁業権など新しい事業を始める時は、行政にしても部落にしてもなかなか協力してくれない。難問を一つ一つ解決して、成功させていかなければ住み良い部落はつくれない。このような中でいつも先頭に立って事業を進めてくれた深沢勘一氏に対して改め感謝を申し上げたい。
私は何事もやると決めれば必ずやり通す、良い悪いははっきりさせる性分で、年上の人でも仲間であっても間違いは間違いだと譲らない。皆さんには随分といやな思いをさせたと思う。十五年間伊藤さんの生き方を見て、あのようには成りたくないと思った。
伊藤さんは、部落のため、子供の教育のため、病める人のため、診療所を造り、岩手県一厳しい外山部落を皆さんで楽しく幸せな家庭を作る事を夢みて、損得抜きで指導し成功させた。しかし、自分の理想のために自分の妻をはじめ子供達、回りの者を巻き込み、辛い思いもさせた。部落の人も周りの人も陰に回れば「伊藤おや爺が」と陰口ばかりであった。
これは目標を決めたなら必ずやり通す、妥協しないためである。電気導入の時は一部の人達は反対し、入札会場に押しかけたり、会議の帰りを待ち伏せして妨害をした。しかし、どんな反対にも断固として立ち向かい目標通り達成させた。白と黒との間に色を求めない人だったと思う。
私も伊藤さんの年になり振り返って見れば、丁度伊藤さんと同じように歩いて来たと思う。農業から商業へと変わり、家内にも大変苦労を掛けた。店の仕事から子供達の世話まで。部落の役職に就いてからは店の用事より部落の用事の方が多くなり、夜は夜で酒飲みを連れて帰る。外での仕事が思う様に出来ない時は家内に当たりちらす。歩いて来た道は、正しかったのか解らない。
唯自分の信念に従って生きてきた。「夢なくして何の人生ぞ」私達は安住の地を求め、県南から入植して来た。外山に来てから早四十七年、子供達も独立してそれぞれ家庭を持った。世の中は、私達の青年時代とは大変な変わり様で、親は子供のためと血の滲む様な思いをしながら家を建てた。今は親子同居は夢の又夢である。人生はその時代時代をより良く生きて行かなければならない。
夢を大きく持ち、生活して欲しい。蛇塚に先人達の顕彰碑を建て、入植者の名前を刻んだ。毎年八月五日は開拓神社の祭典がある。子や孫が一人でも多く集まり、想い出して欲しい。最後に開拓五十年及び顕彰碑建立に御協力頂いた皆様に心から感謝を申し上げたい。平成十一年三月十日