開拓の想い出の記
入植された方々の寄稿文
汗と涙で綴る想い出の手記
私が外山に初めて来たのは、昭和二十七年八月のお盆の時である。現矢巾町に叔母の墓参りに来た時に叔父に当たる伊藤勇雄氏に連れら外山の長屋に一泊したのが始まりだ。外山には従兄の東雄君、弘義君、和雄君達がいた。
その夜の夕食後、今外山では開拓が始まり、農地は五町五反、原野山林十町、計十五町五反の土地が計画面積であり、将来乳牛を何十頭と飼育して大農場主と成る事が出来る等、夜更けまで話が続いた。
確かに昼に見た景色は写真で見る北海道を想わせる広い土地で、県南の様に狭い土地で生活した若い人には、大きな夢を抱かせるに充分であった。翌日県庁に連れて行かれ、入植の手続きをした。父にも兄にも相談なしであった。
秋の取り入れが済み次第入植する予定であったが、叔父からは一日も早く来るよう、矢の催促であり十月三十日、兄と共に入村した。右も左も解らぬ二十三歳であった。南と北ではこんなに寒さも雪の多さも違うのかと初めて解った。笹の上に積もった雪は、腰まで没する深さである。一年目の冬は炭焼きの仕事である。鋸を作れないので木切りが大変な仕事であった。朝早くから午後の八時頃まで毎日働いた。それでも炭焼きをしていた時は生活が安定していた。
春に成り開墾が始まれば多忙な毎日である。柴をかたづけ開墾の準備、野菜の作付け、ソバ播き、刈り取り、組合の用事。現金収入の無い毎日である。金も無く、米、味噌も無く成りどうして今日一日を暮らすか、夜も眠れぬ時も度々であった。夢に出て来るのは、米倉に行けば精米された米がセイロ(板で作った大きな米入れ)ーぱいに入っていたり、味噌倉に行けば、大きな樽に「味噌」「醤油」が一ぱい入っている。ああこれで明日から腹一ぱい喰うことができると思った。
生まれ育った実家は喰うに困る家ではなかったので、金が無い、食料も無い、こんな生活が初めてである。今想うに親兄弟の有り難さが良く解ります。又私よりも食事を作る妻の方が何十倍も苦労をしたと思う。よくも今迄離婚もしないで共に生きて来たと思う。
私が外山に入植する事は、父も祖母も反対したいと思ったでしょうが、一度言い出したら後に引かない私の気質を充分知っているので黙っていた。何年か後に家内が子供を連れて泊まりに行った時、父は米も麦も取れないところに行ったので心配していると言ったそうだ。それからはどんな事があっても、「困った」「苦しい」など、親に心配を掛けるような事は言わない事にした。
昭和二十八年文化の光り電気が導入された。皇太子様の御成婚の時、外山で初めてテレビが映された。こんな山奥にいながら世界の事が目で見る事が出来る。米国という国は、一家に何台も車があり自分専用の車、その他にトラック、トラクターと何台も物乗り物があるのも見た。私達も一生の内には必ず自分で車を持ち、遠いところに行って見たいと思った。
入植してから十五年になる昭和四十二年五月、伊藤勇雄氏一家は新しい理想の国建設のため、南米パラグアイに移住する事になり、先陣として福井勇さん一家が移住した。福井さんは現国道近くに米の配給所を建て、「米」及び「日用品」を小売りしていた。南米移住にあたり店を買い取って欲しいと相談され、現金も無かったが店を買い取る事にした。農業一筋に生きて来たので、新しい商業経営は不安でいっぱいだった。
入植して十五年、家畜を年当たり一頭ずつ増やし、店を買う時は乳牛七頭、短角牛八頭を飼育していた。現金は無かったが、牛の販売代金で店の買取代金の半分を賄った。運転資金も無く親や兄弟から借金をした。
当時ワラビの買い付けもしていた。朝は四時頃に成るとワラビを持って来る人達もあり夜は買い付けから塩漬けの作業で一時、二時頃まで働いた。約一ヶ月間、目が廻る程多忙であった。子供達三人を含めた、家族五人が安心して住める家を新築する事を夢見て。
昭和四十五年頃から外山にも土地ブームが起こり、利用していない土地を手放す人がでてきた。その頃、岩洞湖周辺に皇居を移す遷都論が持ち上がり大いに話題となった。毎日のようにブローカーが来て、住民に色々な話を持ち掛け、今迄手にした事もない大金で買い取る等、住民も浮き足だった。三人五人と土地を手放す人がでてきた。土地ブームもあり又資金借入の手続きにも慣れ、開店して五年目に店を新築した。
これまでは酪農畜産を中心に県道から2キロも奥地で生活していたので、部落の人達と話し合う機会も少なかったし、又学校PTAにはほとんど出席する事もなかった。長男が中学に進んでから、PTAの理事を務め、先輩達から学ぶ事が多かった。唯当時のPTAは、学校への協力、連絡等が主な仕事であったように思う。
児童数が多くなり校舎の増築や教員住宅の増設が進められた。これは開拓者の子供達が増えたためであり、岩洞湖建設時の宿舎を払い下げて何教室か増築した。当時は教職員を含め小中校で百六十七、八人を教えた。
五十年に皆さんから推されてPTAの会長になった。まず第一の仕事はPTAと役員間の対話から始めた。当時PTAは学校の下請と酷評されていた。協議事項は役員会の前に決め、唯通達するだけで、日程も都合の悪い人がいても、決めた事だからと取り上げて協議する事は無かった。
役員会を開いても出席する人はなく流会と成る事も度々あった。物事を決める時に良いか悪いかはっきりとしない人達が多いからだ。打開策として役員会の度に会費を取って酒を出した。自分の想っている事を話題にして議論しながら「良い悪い」の結論を出すよう何度もお願いした。
土地ブームで大金を手にした人達は離農し、三分の一の人が盛岡へ下がって行った。PTAの会員も少なく成り組織としても大変な時期にきていたので役員会に私の構想を話した。それは子供がいてもいなくても、部落全戸がPTAの会員に成ることで、玉山村内では全戸会員制は初めてであった。
その後小学校区では全戸加入制が続々と進められていった。次に小学校校舎の新築に取り組んだ。昭和二十六年に現在地に移築し、その後増築が続けられたが、冬には隙間風が入り勉強どころではなかった。当時はオイルショックの後で校舎新築の予算は、ほとんど取れなかったが、教育次長であった吉田光夫氏の手配により予算化される見通しとなった。
唯学校用地に付いては、地主との交渉は地元で行う事と成った。現用地は移築した時、地主の川島精一氏の所有地であったものを借り受け、借地料を村で支払をする契約であったものを、何かの手違いで借地料の支払いをしていなかったそうだ。
このような前歴があったので一回目の用地交渉には、校長先生を始め地元の先輩方と五人程でお願いに伺ったが、川島氏の怒りは半端ではなかった。三回目の交渉の時に、これから誠意を持って地域づくりや、子供達の教育のために努力する事を約束し、ようやく了解して頂いた。
二月、校舎の解体は全戸奉仕で、柱一本、板一枚丁寧に解体した。校舎建設は、二次にわたり行われた。一次工事は職員室から始まり、書類の移動等PTAは全面的な協力をした。立派に完成された校舎を見た時に、一生懸命誠意をもって事にあたれば、必ず成果が上がる、父兄も先生方ももちろん子供達にも解って頂いた。
小さな部落でも皆心を一つにして協力し合えば大きな成果が出る。全戸会員制から始まり校舎新築への協力。これを機に部落、先生、生徒が一体と成った。県の教育委員会からも認められ、新採用の先生方の研修や国の文教委員の視察もあり、毎年の様に研修会場と成った。もちろんPTAも大いに協力した。児童生徒の学力は見違える程に向上した。
小規模校、辺地校と言われた外山では、高校進学は無理と思っていた。しかし先生方の強力な御指導を頂き、又生徒自身のやれば出来る、この自覚が大きな力となり、次々と進学する様に成った。