第3次 戦後の食糧開拓(立ち上がったリーダー達)

御料牧場が創設された時の「牧畜の明治天皇のご奨励」

  • 民間の模範たるには、経済も経営も模範でなければならぬ
  • 宮内省の補助を仰いではならぬ
  • 所員の俸給・飼料等迄も牛馬の払下げで賄う
  • 自ら耕作し、自給自足せよ
  • 牧畜に於ける人材の養成をせよ

原点に立ち返り新たな理想郷の国造り

開拓関係者が藤原嘉藤治宅の2階に集結。戦後の日本国と岩手県の未来の行く末を案じ、夜遅くまで話し合われていた模様。(藤原艶子氏曰く)以下、終結した主要メンバー。※ キーパソンは「新しき村」を開村した武者小路実篤

① 藤原 嘉藤治

武者小路実篤の「新しき村」の村民に成りたかった村民に成れず。戦後、宮沢賢治の精神を受け継ぎ農民になる決意をし、岩手県の開拓者連盟委員長を務めた。

② 伊藤 勇雄

武者小路実篤の「新しき村」の村民に入村。帰村後は岩手に戻り農民運動を進め、岩手県議会議員、岩手県教育委員会委員長歴任。戦後は紫波郡煙山村(現矢巾町)に移り岩手県開拓審議会入植選衡部会委員を務め。薮川外山開拓に自ら志願。

③ 高村 光太郎

下総御料牧場で「三春駒」の詩を作り、白樺派の中心人物であった武者小路実篤とは、旧知の仲だった。戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自責自省の念から花巻郊外の稗貫郡太田村に粗末な小屋を建て移住独居自炊の生活。岩手の開拓に貢献。

④ 谷村 長三郎

旧徳田村(現矢巾町)村長で開拓組合の一員で、徳田村の次男三男の若者を薮川外山開拓に入植する事を促した人物。※戦前徳田村は農家の飼育技術がすぐれており軍馬生産が盛んに行われていた場所。

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その他、開拓関係者が集まり、戦後の日本国と岩手県の未来の行く末を案じ、夜遅くまで「酒とタバコと開拓談義」したそうです。(藤原艶子氏曰く)

開拓指導者たちは、かつて外山に御料牧場を認識しており、牧畜でかつての輝きを取り戻すべく立ち上がる。私が想像するに、宮沢賢治が健康で戦後まで生きていたとすれば、羅須地人協会を立ち上げた宮沢賢治も開拓談義に加わっていたかもしれません。

外山の戦後年表(前半)

昭和19年(1944)●6月 中央政府の高官が来県。食糧増産が急務の状況で未利用地活用運動展開
昭和20年(1945)◆4月 県令の外山1000町歩の緊急開墾発令。食糧増産隊と学生動員の集団開墾を開始。大豆、ソバ、馬鈴薯を作付け。
・5月 外山高原一帯の笹に花が咲く。
◆8月初旬 作付けの大豆、ソバ、馬鈴薯は霜害で作物全滅。
●8月15日 ポツダム宣言受諾 終戦。 ●9月~GHQは占領政策発令 ◆9月 GHQ岩手軍政部設置。初代部長シェーファード中佐が政策指導と監視にあたる。●11月 政府は「緊急開拓事業実施要領」を決定
昭和21年(1946)◆GHQの占領政策「馬政改革」と「農地改革」。東北種馬育成所及び岩手種馬所廃止。岩手牧場として整備統合。一部は他の家畜とともに種畜牧場に改められ、種馬派遣種付事業は廃止。・官民牧野は農地に開放
昭和22年(1947)◆戦後の緊急食糧確保のため官民牧野の開拓未墾地59町歩余を農地に開放。地元の地元二、三男12戸が入植。◆岩手種畜牧場の夏季放牧本年で廃止。・1月 蛇塚冬季分教場開設。・4月 外山小学校と改称、外山中学校を併設。●10月「緊急開拓事業実施要領」「開拓事業実施要領」に改訂
昭和23年(1948)◆外山居住民の自作農創設用地として94町歩余を開放。
昭和25年(1950)◆種馬育成所用地1,445町歩余開拓予定地として県が引継ぐ。・外山移住民に対する馬の新規貸付を廃止。・徳田分村10戸蛇塚に入植。・12月 外山小学校新校歌制定
昭和26年(1951)・5月 新校舎建設着工。仮校舎蛇塚旧御料牧場厩舎。9月 外山小学校新校舎竣工。・9月22、24日 大霜害により作物全滅。
昭和27年(1952)・東磐井郡から伊藤勇雄氏ほか6戸、沢内村から深沢勘一氏ほか6戸入植。
昭和28年(1953)・開拓未墾地として、さらに262町歩を開放。・外山地区に電気導入。