一条牧夫という人
『もりおか物語』より抜粋
山吉 一条牧夫という人は、一条基定の九番目の子どもで〝九平”といい、また名乗りは”基治”といいました。父の基定という人は、上小路の入口のところ、いまの糸治邸のところに屋敷があって、そこで無名庵という盛岡で最初の牛乳屋をやっておりました。
いったい一条家というのは、南部の殿さまの御連枝(御兄弟)から出た家柄で、糸治のところの屋敷は殿さまの御鷹茶屋だったんです。それで御連枝というのは、むかしは御庭番とか御鷹番とかいうような、殿さまのプライベートなお側の役目についていたもんです。
そして栃内曾次郎海軍大将・八角三郎海軍中将、それから鹿島組の鹿島精一・駐米大使の出淵勝次などという人達は、みんな一条家の親戚で、鹿島精一出淵勝次・鈴木巌などは基定の甥になるわけで、牧夫翁の夫人は北大総長佐藤昌介男爵の兄昌孝氏の娘でした。
これらの甥たちは若い時分はみな無名庵の牛乳配達をしていたンですよ。無名庵牛乳というのは、盛岡では一番古い牛乳で、当時は牛乳罐を積んだ函車をひいて来て、牛乳の計り売りをやっていたものです。
一条牧夫は、小さいときから非常に動物好きだったが、畜産に生涯をささげようというので”牧夫〟と改名した。これは二十四~五歳になってからのこと。後年初代県会議長になった上田農夫と並んで、お前は農夫と改めて農業をやれ、おれは牧夫と名をかえて畜産をやるということで牧夫”と改めたのです。
それで明治六年(一八七三)に、当時の一条九平はいとこの栃内曾次郎といっしょに奥州街道を歩いて上京し共勧義塾に入ったンです。ここはいわゆる英学塾で予備校なんですから、そこで勉強して外国語学校・大学予備門を経て、明治九年(一八七六)にできた駒場農学校へ第一回生として入学しました。そして長兄基緒に子供がなかったので、その嗣子になりました。
ところで、この共勧義塾ですが、これは三田の薩摩第屋敷にあったンです。南部利恭さんの奥方は島津から来たンですから、その関係で島津と南部とが提携して共勧義塾というものを作った。島津側の生徒取締りは山本権兵衛、南部側の生徒取締りは一条基緒だった。
基緒は当時一条家の当主で、もと尾去沢の鉱山奉行をした人だった。明治政府に出仕して、明治六年に農商務省鉱山寮権助となり、従六位、南部公は従五位、当時の日本の鉱山行政はこの人がやったンですな。この人は、明治二十九年に死んだンですが、それはシーメンス事件に際して山本権兵衛の身代りになって自殺したんです。そういうことで共勧義塾というものを通して、薩摩と南部の人間的な強いつながりができていたのです。
だから共勧義塾には、原敬にしろ、田中館愛橘にしろ、山屋他人・栃内曾次郎・菊地大麓などみんな入っております。そして薩摩との間に固いつながりが強まり、そののちの斎藤実・山屋他人・米内光政など、岩手からどんどん大臣大将が輩出するようになったそもそものもとがここにあるので、共勧義塾というものは岩手の人物を語る場合、決して見落とされないものなんです。
駒場農学校に入った一条九平は、ここの御雇教師アメリカ人エドウィン・ダンという人に非常にかわいがられた。そして生徒兼家畜病舎主任となりました。そのころ、早くも横浜には慶応年間にできた外人の根岸競馬というものがありましたが、そこで競馬馬が病気をすると、エドウィン・ダンが一条九平をつれて治療にいくわけだ。
すると外人側では、五円とか十円とか当時としては大変高額のチップをくれる。それを、後年馬政局長官をはじめ、わが国の畜産行政上の大官になったそのころの貧乏な同輩たちに貸し与えたわけだ。
それでその連中も、一条九平には後々までも頭があがらんことになったのですな。
そんな関係で、後には農商務省に外国から馬を買わせて、それをいきなり岩手県に持ってくるという様な放れわざができたわけです。何しろ一条牧夫の生きていた間は、岩手県がわが国馬産の中心だったのが、亡くなったとたんに、中心が北海道に移ってしまいました。
その後、一条九平は駒場農学校を半途退学して、下総の御料牧場に引っぱられたンです。半途退学でも卒業したものとして取扱うからというわけでした。そこで御料牧場につとめているうちに、新渡戸稲造にここにいるよりも北海道にいこうと誘われて、二人で札幌へいったんです。新渡戸稲造とはイトコ同志で、これが札幌農学校の教授になっていったわけです。二人で東京から青森まで人力車でいったそうですが、二十六日かかっている。
当時は、青森から大間にいって、大間から船で北海道へ渡った時代ですが、大間から十九日かかって札幌まで行っているンですね。こうして新渡戸稲造といっしょに札幌農学校にいった一条九平は、開拓使牧畜一等出仕・家畜病舎主任に任命されましたが、当時二十二歳です。しかしここに二年いて、明治十四年(一八八一)に岩手県令島惟精と上田農夫に盛岡へ呼び戻されたわけだ。そして外山牧場の主任となった。
その前には、駒場農学校の御雇教師だったジョン・マキノンというアメリカ人が場長だったが、そのマキノンのいた官舎がまだ葉水に残っていますよ。それでマキノンに代って一条牧夫が技術の方をやったが、事務の方は川島善世という人がやっていた。
この人は、島県令が東京からつれてきたご家人なんですが、勧業課の属を兼ねていたので、一日置きに県庁へ出勤するのに、外山から七里半歩いて通ったそうです。さすがの一条牧夫も、「川島さんにはかなわん」といっていたものですが、昔の人は全くえらいもんですな。この川島家は、いま外山の葉水の郵便局長の家です。
ここで一条牧夫も、非常に苦労したンです。というのは、当時はまだ狼のたくさんにおった時代ですしね。そうしているうちに、明治二十四年(一八九一)茨島に県の種畜場ができまして、外山はその分場になったので、一条牧夫は本場の場長と分場主任を兼ねておって、牛だの馬だのを外国から入れましたが、それが国粋主義で南部馬第一という県会議員の逆鱗にふれたわけです。
そこで一条牧夫はいきなり種畜場長をやめて、明治二十一年(一八八八)から始まっていた東北本線の線路工事の材料運搬に、自分の輸入したアングロノルマンという大きな輓馬(車両をひく馬)を使って、四輪馬車をひいて優秀性を実証したわけです。すなわち全く官途をなげうって、一荷馬車挽きに身をおとしたンです。
当時の南部馬は二輪馬車しかひけなかったが、フランス産のアングロノルマンは四輪車をどんどん牽くンですよ。だから、この馬に一番先に惚れ込んだのは、馬車挽きたちです。一条牧夫は、こうして下から築きあげていった。これはだれかれには出来ないことと思います。そういうことがサッとできるというのは、これはやはり生まれのよさ、育ちのよさですな。官職や官位にへばりついていたのでは、このような思いきったことはできませんよ。
このような牧夫の直情的な性格は、ずっと後年まで続いておりまして、昭和三年(一九二八)にいまの天皇陛下の御即位式があったとき、一条牧夫に勲章が授与されることになった。これは、あまり農林省に来てうるさいことをいうものだから、勲章をさずけて黙らせろということになって、勲二等を授与するについてお受けをするかということでした。石黒英彦知事のときだった。このときは、わたしも知事といっしょに行ってみました。
すると一条牧夫は、「それは拝辞を致します。これを頂くと、わたしは勝手なことを申し上げられなくなります。わたしの生きている間は、牛や馬を守らなくてはならない。そのためには、この勲章をもらって口をふさがれては、日本の牛や馬がだめになります」といって、おことわりしてしまったのです。どうです。たいした気慨ではありませんか。
それで何ともしようがなくて、政府は帝室技芸員・彫刻家の朝倉文夫氏に陛下の御愛馬”吹雪”の頭部を銀で作って貰い、陛下がお名前を〝裕仁”と彫られ、ステッキを下賜されたんです。それについてまた面白いことがありました。その後になって軍馬補充部本部長の梅崎中将が、一条牧夫のところへやってきたンですがね、牧夫は、お前たちのやり方がまちがっていというので、いきなり中将閣下をどなりつけたンですな。その中将は、すっかり怒ってしまいましてね。
すると牧夫は、例のステッキで閣下の肩をそっとおさえつけてしまった。そばにいた副官が、真赤になって立ちあがったその眼の前に牧夫は、この杖をよく見ろといったら、陛下のお名前が彫ってあるもんですから、閣下も副官もハッと参ってしまった。まァ、そういうこともありましたよ。まるで、水戸黄門みたいなものです。
話は前にもどりますが、日清戦争のすんだ明治二十九年(一八九六)に、一条牧夫は世界一周をしたンです。そのときは茨島の場長に戻っていたのですが、またやめてしまって、本当のものを勉強してくるといって、アメリカから欧州を全部回ってきたンです。とにかく、アラビヤのベドウィン(アラビヤ砂漠の遊牧民)の中まで入って馬を調べてきたンですからね。
アメリカでは、当時米国第一のジョン・マケーの牧場で勉強してきています。この世界一周は、日本の馬、特に南部馬というものを基礎にして考えて、岩手県にはどういう資質の馬を入れるのが必要かという目標を立てるためでした。その結果、フランスのアングロノルマンとい馬と、英国のハクニーという馬を入れて、南部馬の特長を生かすということを考えた。
アングロノルマンというのは、フランスのノルマンディーの馬と英国のサラブレットをかけ合せた輓馬で、またハクニーというのはスコットランドの軽輓馬なンです。つまりこういう馬の血統を入れて、平時は軽輓馬とし産業用に使い、一旦緩急の戦時には騎兵用軍馬として使うという、両面通用の馬を生産しようという政策を立てたわけです。アングロノルマンは、前にいったように四輪馬車を牽く力の強い馬ですし、ハクニーというのは、普通の馬よりも高く脚をあげて歩く、とても美しい馬でしてね。あとで小岩井農場でも、このハクニーをたくさん入れました。
いったい英国という国は、あのように狭い国でしょう。だから一頭の種畜を外国に売って、その金で普通の国内用の役馬百頭も買い入れ得るような、そういう高級種畜を生産するというのが国是だったンです。一条牧夫は、英国のこのやり方を岩手県にそのまま持ってきて、岩手県をもって日本全国へ優秀な種畜を供給する畜産基本県にしようという考えだった。だから、岩手県にとっては牛や馬の神さまみたいな存在だったンですよ。
そのような徹底した眼識をもっていたので、農商務省も陸軍もかなわないわけだ。日露戦争のあとで〝馬産三十年計画”というものができたわけだが、この草案は、一条牧夫と藤波言忠子爵という宮内省の主馬頭との合作で、これを馬政御下賜案として、いきなり政府に天降りさせたもンで、これには陸軍もグウの音も出なかった。まあ、これは放れわざ中の大放れわざだったンですな。
一条牧夫の長男の一条友吉、この人もまたリーダーとしてわが国第一流の人物だったンです。盛岡中学校を終わると、たった四百円の金を握ってアメリカに行ったンです。そのころ従兄の出淵勝次は駐米大使館の書記生だったンで、それをたよりに行ったンですがね。
ところがアメリカに着いたら、トラホームで上陸を許されなかった。そこを密入国して、ちょうどシャトルで博覧会があったので、その博覧会の監視人にもぐりこんでいたンだそうです。ある日何とか中佐の奥さんが馬車でやってきたとき、その馬があばれて大変なところを、友吉が馬をとり押えてやったンですよ。
その関係からその中佐の世話で、かつて父牧夫の視察したアメリカ一のジョン・マケーの牧場に住みこむことになりましてね。そこで十七年間、カウボーイをやっていたンですよ。最後にはサクラメントから少し入ったところのエルメンドーフという牧場をまかせられて、そこの牧場長をやりました。
当時、プレッセリアという名馬があって、これはアメリカ一流の競走馬だったンですがね。それが病気で引退していたのをエルメンドーフにひきとって病気をなおし、この馬でアメリカの競馬界を席捲したンです。何でも当時の金で、二十万ドルという大金をもうけたということです。それでこれぐらいもうけたから、もう日本へ帰ろうとしたが、その前に競馬の本場の英国を回ろうというので、英国へ渡った。
そして一七三〇年以来ダービーをやっているニューマーケットのエプサンプという競馬場へ行ったが、そこの競馬場ガールに惚れこんでしまって、その二十万ドルをすっかり使ってしまった。ちょうどそのころ、出淵勝次が英国の大使館にいたので、日本に送り返してもらったということです。盛岡に帰ってきて、すぐに市会議員になりました。
だから一条友吉が亡くなったときは、米国競馬界の本山のレキシントン・ヘラルドという新聞などは、一ページも割いてプレッセリア・トモの死を報道しましたが、アメリカの競馬界ではそれほど有名だったンです。
日本に帰ってきてからは、下総の御料牧場、あそこの種牝馬(めすうま)は全部一条友吉が選定して、アメリカから入れた馬です。それで友さんは、宮内省御用だったンですがね。これに対して岩崎の小岩井農場は、英国の馬を入れた。その結果、天皇陛下の御料牧場と対抗するのは、岩崎の小岩井農場で、この両方でサラブレットを生産して日本のダービーというものが成長してきたンです。
いずれにしても一条牧夫・友吉の父子は、馬にとってはわが国第一流の存在だったわけですが、I send you awfully love as likes Ocian waves! (私はあなたに太洋の波のような愛情を贈る)というラブレターの綴りを死ぬまで持っていて、それを私に見せてニヤニヤしてましたから、友吉という人もとても洒脱な素晴らしいオールド・ボーイでしたよ。
日露戦争のあとで、世界の軍馬の速力くらべが騎兵学校から出ておりますがね。フランス、ロシア、ドイツの軍馬は、日本軍の馬の倍も速いですよ。いずれも一時間の距離を走るのに二十分違うンです。これでは、とても戦闘にならない。従って軍馬には速力と耐久力とが絶対なのです。それで日本の軍馬に、速力の早い馬の血統を入れて速さを増す必要があったわけです。
一条牧夫は、最初に外山牧場時代、すでにマキノンの入れたトロッターというロシアの輓馬を手がけておりました。ロシアにオルロフロストプチンという公爵がおるンですがね。その公爵がお妾さんのところに通うトロイカを牽かせる馬、できるだけ速い馬をつくれというので、オルロフトロッターという馬をつくった。それを一条牧夫は、明治十年代に再び外山牧場に入れているンです。
ここの黄金育成牧場にもオルロフが一頭いましたがね、白い大きな馬でしてね。五尺八寸ぐらいあるコザック騎兵の馬です。普通の馬は五尺一寸か二寸なンですが、それが六~七寸も高くて、いや速いこと速いこと、”ダク”で走っても、今の競馬の”駆け”よりも時計が速いでンです。息子の友吉のときには、アメリカレートリーとワンチャンというフラングトロッターを入れましたが、いずれトロッターというのはソルキー(繫駕)専門の馬ですが、根本は日本の軍馬にその血を入れて、速力を増すためだったのです。
一条牧夫は、大正三年(一九一四)四月に種畜場を退官しましたが、その後も農林省の役人は任官退官の時はもちろん、事あれば無名庵にお百度詣りを絶やしませんでした。牧夫というお爺さんは、わずか五尺あるかないかの小柄な人でしたが、その当時丹下謙吉という馬政官がおって、これは盛岡出身で駒場の同級生だったンでしたが、どうも一条牧夫には頭があがらなかったようです。
昭和五年(一九三〇)から、この八幡森に黄金育成牧場を創設して、サラブレット二十六頭、トロッター二十頭をおいていましたが、太平洋戦争でつぶされてしまったンです。
ここへ移って、牧夫翁は離れ座敷におりましたが、その記憶のよいのには驚きました。明治維新前後のことなどは、ほんとうによく覚えているンです。わたしを秘書役にして聞書きのノートを作らされましたが、一面また一流の毒舌家で、一生勝手なことをいって暮らした趣きもありました。
この八幡森の牧場に移る前に、盛岡銀行の金田一国士が花巻温泉をつくったとき、動物園をやっていたので、翁を園長に頼んでいたことがあるンです。そのとき、動物園の大きな羆が逃げ出しましてね。翁はその熊を鉄扇一本であしらって、もとの檻の中へ戻したことがあったンです。もっともその羆は、上小路の自宅で自分が飼っていたことのある熊だったンですがね。
そのころ岩手日報にいたわたしのところへも、花巻温泉から電話がかかってきたンですよ。それから車をとばしていって、現場の写真を撮らせたりしましてね。羆の檻に通ずる廊下があったンですが、その廊下のところまでいって、くまはピタッと止まってしまった。そしてあとに戻る気配になった。すると翁は、後から鉄扇でガンと尻を打ちつけた。とたんに、くまがボコンと跳ねて檻の中に入ってしまいました。
ところが、それからおじいさんはガタガタと震えるンですよ。そしてどうしてもその震えがとまらないんです。これは極度の緊張のためだったのですな。医者をよんできて鎮静剤を注射してもらって、ようやく癒りました。そのころは七十二~三歳ぐらいのころでしたかな。
昭和十三年(一九三八)十月十九日に、八十一歳で亡くなりました。死ぬ前に、その功績を顕彰するため、吉川保正氏の作った翁の小さな銅像が中の橋ぎわに建てられました。中の橋の西側の今小さな築山のあるところに、みかげ石で築いた馬の水飲場をつくって、水飲場の向こう岸のところに翁が馬を曳いて撫でているという小像でしたが、戦時中に回収されて持っていかれてしまいました。
翁は非常に無欲恬淡な人でしたが、それは生まれや育ちの外に、わが国の畜産馬産の成長とともに、財を積み地位を築いた連中の作った体制の腐敗に対して、お前らとグルになるものか…という火のような憤りで裏付けられていたためもあったのだろうと思いますな。こういう人が無くなると、官僚のイージー・ゴーイング(安易な行き方)が進むだけですね…….。