駒場農学校

明治12年7月 東京駒場歓農局農学校
明治12年7月 東京駒場歓農局農学校 / 一條家所蔵提供

駒場農学校について

駒場農学校は、日本の旧制教育機関。現在の東京大学農学部、筑波大学、東京農工大学農学部の前身にあたる農学に関する日本初の総合教育・研究機関であった。

概要

黎明期の日本近代農学の発展に大きな役割を果たし、日本近代農学発展の礎となった。アメリカの農業を教育の柱にしたクラーク博士で有名な札幌農学校に対して、もっぱらドイツ農法に範を求めた駒場農学校は、やがて欧米の農作物を試植する泰西(たいせい)農場、在来農法の改良を期した本邦農場などの農場のほかに、園芸・植物園、家畜病院、気象台などまで備えた農業の総合教育・研究機関となった。

沿革

1874年内務省勧業寮内藤新宿出張所に農事修学場設置。
1877年 内務省樹木試験場設置。
1878年農事修学場を駒場農学校と改称。
1881年樹木試験場および駒場農学校は農商務省管轄となる。
1882年樹木試験場を東京山林学校と改称。
1886年樹木試験場および駒場農学校を統合、東京農林学校設置。
1890年帝國大学へ統合、同大学農科大学となる。
1898年乙科は実科と改称。
1919年東京帝國大学農学部と改称。
1935年実科が東京高等農林学校として独立する。
1937年農業教員養成所が東京農業専門学校として独立する。

岩手に集結していた駒場農学校 第一期生

一条牧夫

一条 牧夫翁(獣医学)

安政05年(1858)岩手郡東中野村(現:盛岡市東中野)に生まれる。
明治05年(1872)15歳で上京。後に駒場農学校で畜産学を学んだ。その後駒場病畜舎や下総種畜場で馬の育成にあたる。
明治14年(1881)外山牧場顧問(初代牧場長)となり、馬をはじめとする家畜の改良と牧場の整備に尽力した。畜産の発展に生涯を捧げようと志して牧夫と改名。
明治31年(1898)岩手種馬厩を設立。岩手は古くから馬の産地だったが、時代に即した馬の改良の必要性を感じ、南部馬と交配させて改良馬を生み出す。『岩手産馬改良の父』と言われている。
明治34年(1901)岩手種馬厩が岩手県種畜場と改称され場長となる。欧州の畜産状況を視察する。
大正03年(1914)辞職。一貫して産馬改良に努めた。岩手が馬産地として広く認められる様になったのは、牧夫の努力によるものと言っても過言ではない。
新山荘輔氏(獣医学)

新山 荘輔氏(獣医学)

安政03年(1856)山口県阿武郡大井村(現:萩市大井)に生まれる。
明治13年(1880)駒場農学校獣医科(後の東大農学部)卒業。下総種畜場勤務。下総御料牧場の初代場長として34年間務めた。種畜の改良・繁殖・育成等を通じ飼養管理、治療法等に尽力した事から『日本獣医学の生みの親』と言われている。
明治18年(1885)宮内省御用掛に任命、侍従の藤波言忠子爵の随行して欧米に渡る。各国の畜産業の視察と研究に没頭。
明治21年(1888)宮内省下総種畜場は「下総御料牧場」と改称。下総御料牧場第五代場長に任命。同時に北海道新冠御料牧場長を兼務。
明治24年(1891)岩手県外山御料牧場長に任命。下総・新冠・外山の御料牧場を兼務。
明治32年(1899)小岩井農場の経営が岩崎久弥に引き継がれる。主馬頭の藤波言忠を相談役に、経営監督を新山荘輔に依頼。
昭和05年(1930)11月7日鎌倉の別荘にて永眠。
丹下謙吉氏(獣医学)

丹下 謙吉氏(獣医学)

安政04年(1857)愛媛県伊予国今治(現:宇和島市)、伊予今治藩士の二男に生まれる。
明治13年(1880)駒場農学校獣医科(後の東大農学部)卒業。岩手県に勤め、獣医学校教諭を兼ねる。のち農商務省、宮内省に転じ、主馬寮種馬所技師ならびに馬政局技師となり、馬の改良に努めた。
昭和02年(1927)退官し錦鶏間祗候となる。
昭和04年(1929)永眠。
玉利 喜造(農学)

玉利 喜造(農学)

安政03年(1856)薩摩藩(現:鹿児島県)に生まれる。
明治13年(1880)駒場農学校農学(後の東大農学部)卒業。農務局編輯に従事し、さらに駒場農学校助教授に任命。
明治18年(1885)アメリカ合衆国に留学し、ミシガン州立農学校、イリノイ州立大学で学んだ。
明治20年(1887)帰国。東京農林学校教授、帝国大学農科大学助教授、同教授を歴任。
明治32年(1899)農学博士の学位を得た。
明治36年(1903)盛岡高等農林学校校長に就任。
明治42年(1909)鹿児島高等農林学校校長就任。
大正11年(1922)貴族院議員に勅選され、鹿児島高等農林学校名誉教授の称号を得る。
昭和06年(1931)永眠。

※ 撮影場所:岩手大学農学部附属農業教育資料館