一條牧夫の青春 駒場農学校第一回生時代
『外山開牧百年史』より抜粋
「翁は明治九年、東大農学部の前身、駒場農学校第一回生として入学早々、獣医学科生徒兼助手、翌十年には生徒兼家畜病舎主任を仰せつかった。これにはわけがあって、翁の直話によると、第一回生は大学医校や農学本科の落第生が大部分で、初めから獣医になる気などのない、馬や牛の産地出身者はなかった。
つまり、生まれて初めて牛馬のそばに寄る連中だったうえ、その頃の日本の牛馬は獣医学科主任のエドウィン・ダンさえ、これは家畜ではない、野生の猛獣だ……とさじを投げるようなシロモノばかりで、扱えたのはおれひとりだった。
当時、横浜在留のギャンブル好きな外人が集まって根岸競馬場をつくり、毎週のように競馬会を催していた。わが国洋式競馬の初まり(明治二年)だったが、その競馬会の馬が、けがをしたり、病気にかかるとエドウィン・ダンに依頼がきて、ダンは「カモン、ボーイ」と翁を助手につれて往診する。すると帰りはきまって、五円(当時白米一石三円四十銭)のチップをもらったので、翁の懐中はいつでも豊富であった。
その頃、農学校の寮は新宿にあり、裏手が遊廓であった。遊びたくても銭のない新山荘輔(後に下総御料牧場長・馬政局長官)や勝島仙之助(獣医学博士・東大教授・内科学)、須藤義衛門(同・外科学)、岸本雄二(同馬政官)、坂常三郎(日高・奥羽両種馬牧場長)などの連中に、みんな軍資金をくれたり貸したりした。
明治十三年になると、ダンが開拓使札幌農学校お雇い教師に移り、翁も無理やりつれてゆかれて、開拓使一等牧畜取扱、家畜病院主任を仰せつかった。ところが、その春、翁が札幌農学校から東京出張の途中、盛岡を通過すると、県令島惟精にその上京を扼され、いきなり、県営外山牧場の場長事務取扱を命じられてしまった。当時、同牧場にお雇技師として在勤していたマッキノンは以前、駒場農学校農業現術生教師をしていた関係上、二十四歳の一条場長とは顔馴染みであったが、結局はご用済みとなった。
翁は駒場時代にも帰盛をするたびに、伯父の県勧業課長の佐藤昌蔵氏(北大総長昌介男令兄)にダンやマッキノンから得た新知識を伝え、その結果、県では明治十年、内務省勧農局から、米国産トロッター種のライトニング(雌)とタリニースタッド・タオレー(雄)、十二年には同トロッター種雄レーゼントと農用種雄馬サムクライドの貸し下げを受けた。これらの種馬はすべて外山牧場に繋養され、当時六四、二九〇余頭を算した県内雌馬を対象に、全国最初の洋血注入による改良増殖に着手した。
(註)ダンは札幌農学校在職中、道内を視察し、日高と新冠に馬牧場、真駒内に牛牧場、月寒に羊牧場開設の方針をたて、畜産の開発を指導した。彼は任期を終え帰国したが、のち外交官として再び来日し、日本婦人と結婚、辞任後も帰国せず、八十四歳で死去するまで、北海道を初め日本全国の畜産開発に尽力した(令名高いダン道子はこのダンの令嬢)。
一條牧夫翁
安政五年尾去沢鉱山御用人(支配人)基定の九男に生まれ幼名九平。長兄基緒(明治二年鉱山寮権助=次官)の養子となり、基治(もとはる)と名のり、後に上田農夫の農と並称して牧夫と改名。
佐藤昌介は妻の兄、栃内曾次郎(海軍大将)は従兄、出淵勝次(駐米特命全権大使)、鹿島精一(鹿島組創立)は従弟、八角三郎(海軍中将)、鈴木彦次郎(作家)は翁のおい。昭和三年叙勲を拝辞。特旨をもって帝室技芸員池田勇八の作になる天皇陛下御愛馬「吹雪」頭部の銀製握りを付した洋杖を恩賜。昭和十三年十月十六日、八十一歳で死去(山吉氏による)。