探訪経緯16-1(再会と再発見の外山路)

伊藤勇雄

二度目の帰省と恩師への連絡

2006年6月24日。6月上旬に弾丸撮影を終えたばかりでしたが、この月二度目となる岩手への帰省をしました。伊藤玄一郎氏が岩手に帰省するのに合わせたものです。

今回の目的は、伊藤勇雄氏の足跡を辿り、岩洞湖畔にあった書斎を確認すること、そして外山御料牧場跡地をご案内することでした。あわせて、当時の玉山村長・工藤久徳氏に、外山に関する調査の中間報告を行うためでもありました。

帰省する前、私は外山小学校5・6年で担任をしてくださった恩師、漆戸邦夫先生に連絡を入れました。勇雄氏の息子である玄一郎氏がパラグアイから一時帰国しており、外山にお連れすることをお伝えしたのです。すると先生は、「ぜひ同行させてほしい」と強く希望されました。

恩師・漆戸先生と「外山会」の縁

漆戸先生は、外山小学校に赴任した際、高原詩人・伊藤勇雄氏の存在を知り、教育者として彼の人生に衝撃を受け、尊敬し共鳴された方です。定年後も勇雄氏の書籍や資料をご自身で集め、研究を続けておられました。

私と先生の関係には、少し特別な背景があります。昭和43年6月、外山小中学校の学校給食が全面稼働するに伴い、母が給食調理を一人で務めることになりました。その関係で、私たち家族は「蛇塚」の味噌小屋から、「葉水」にあった一軒家の教員住宅に住まわせてもらうことになったのです。

学校からは歩いて10分程離れていましたが教員住宅であった事もあり、放課後も他の生徒より先生方と顔を合わせる機会が多く、子供心にはどこか窮屈な思いをしていました。

また、外山小中学校に赴任した先生方はなぜか結束が固く、別の学校へ移った後も「外山会」という会を作って親睦を深めておられました。忘年会や先生方が定年を迎えるたびに送別会が開かれ、そこには母も招かれていました。

私が藪川地区で活性化活動をしていることも、その縁で先生方の間に知れ渡っていたようです。漆戸先生とは卒業後も個別にご自宅へ伺うことがあり、勇雄氏に興味を持たれていることを知っていたので、今回ご連絡を差し上げたわけです。

天峰山からの絶景と命名の由来

翌25日、空は見事な晴天となりました。同行者は、伊藤勇雄氏のご子息である玄一郎氏(五男)、拓次郎氏(六男・当時は岩手県立大学大学院に在籍)のご家族。そして恩師・漆戸邦夫先生の計7名です。私の愛車プレサージュでお迎えに行き、いざ外山へと向かいました。

コースは、常光寺から天峰山、家族村を通り、岩洞湖レストハウス、そして蛇塚に向かう時計回りのルートです。
「天峰山」に到着。ここを初めて訪れた漆戸先生は、「すごい景色だ」と息を呑んでいました。かつて国道455号線をバイクで通勤していた際、道すがら盛岡市内を見渡せる箇所があることは知っていたそうですが、「岩手にこんな絶景ポイントがあったとは知らなかった」と、その景観を眺めておられました。

私は、かつて不動産業をしていた勇雄氏の二男・東雄氏がこの一帯を買い占めていたことや、「天峰山」という名前自体を彼が命名したことなどをお話ししました。

40年を経て再会した湖畔の書斎

そして、玄一郎氏や拓次郎氏からパラグアイに移住した時のお話を聞きながら、岩洞湖畔にあった勇雄氏の書斎へと向かい、岩洞湖レストハウスに到着しました。私自身も書斎を訪れるのは初めてでしたが、息子さん二人に案内され、徒歩で2分ほど歩くとその建物はありました。

パラグアイに移住してから約40年。書斎の建物が健在であることに、二人はほっとした様子でした。管理は一関の「伊藤勇雄継承会」がされており、鍵がかかっていたため中に入ることはできませんでしたが、窓からは本棚が確認できました。

蛇塚の開拓記念碑と歴史の継承

続いて、御料牧場の事務所があった場所へと向きました。伊藤家が移住前に暮らしていた家があった場所であり、現在は「夢なくして何の人生ぞ」の開拓記念碑が建立されている「蛇塚」です。

記念碑に到着し、私たちが幼い頃に過ごした当時のことを懐かしく語り合いました。私は改めて、明治・大正・昭和、そして戦前・戦後と一通りの外山の歴史を説明し、御料牧場時代の写真や配置図を広げてお見せしました。玄一郎氏も拓次郎氏も、幼い頃やはりここで過ごしていたはずなのに、全く別のものが存在していることを、想像すらできないようでした。

私たちの話が終わると、漆戸先生はご自身の体験談を静かに語り始めてくれました。

歴史探索の経緯(続き16-2)へ