探訪経緯15-2(幻の「外山御料牧場」)

夏草に消えた「兵(つわもの)どもが夢の跡」

千葉の下総や北海道の新冠には、今も白亜の洋館や貴賓館が残り、その歴史を雄弁に物語っています。対照的に、岩手の「外山御料牧場」には、当時の面影を残す建物は一つもありません。残された資料といえば『外山開牧百年史』のみ。

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり……」

かつて三浦先生が口にしていた松尾芭蕉の句が、今の外山の風景に重なります。かつての栄華も、今はただ夏草が知るのみ。戦後二十数年ぶりにこの地を訪れ、変わり果てた「兵どもが夢の跡」を目の当たりにした三浦先生の胸中には、言葉にできない悲しみが込み上げたに違いありません。

払い下げられた栄華と、記憶に残る「巨大なトイレ」

蛇塚にあった御料牧場の施設は、大正11年の閉鎖後、すべて岩手県種畜場に払い下げられました。昭和12年に種畜場の本場が滝沢へ移転する際、事務所や貴賓館などは解体・移築され、外山には官舎や厩舎の一部が残るのみとなりました。菊の御紋が入った2台の馬車も、1台は火災で失われ、もう1台は滝沢へと運ばれたといいます。
その後、残った建物は戦後の開拓者たちの宿泊施設として利用されましたが、やがて解体され、家々の資材へと姿を変えていきました。

私が幼かった昭和40年代初め、蛇塚に辛うじて残っていたのは、かつて種馬検査を行っていた屋根だけの建物と、蹄鉄を打つ鍛冶場の建物。雪で半壊した大きな厩舎の屋根。そして、大人7、8人が同時に使用できるほど巨大な「共同トイレ」でした。実は私には、このトイレにまつわる忘れられない記憶があるのです。

運命に翻弄された母子:「毛無森」から「大の平」「北の又」そして「蛇塚」へ

外山御料牧場の跡地を辿ることは、私自身のルーツを辿ることでもありました。そこには、母が経験した、あまりに過酷な記憶が眠っています。
運命が暗転したのは、私が生後5ヶ月を迎えた頃でした。29歳の若さで父が他界。祖母の勧めで盛岡の「毛無森」の借家を引き払い、「大の平」にある父の実家へ身を寄せたのですが、保険金の受取人を巡るトラブルから、私たちは家を追い出されてしまったそうです。

行き場を失った私たちに手を差し伸べてくれたのは、父の姉(伯母)でした。蛇塚の奥の「北の又」にある伯母夫婦の家の牛小屋の隣に小さな小屋を建て、そこで寝起きする生活。開拓の許可が下りるまでの約3年間、母はそこで必死に生き私たちを育てました。私の最も古い記憶は、断片的ながら、この質素な小屋の景色から始まっています。

蛇塚の「味噌小屋」と、闇に浮かぶ懐中電灯

しかし、開拓の許可は思うように下りません。いつまでも親族に甘えるわけにいかないと覚悟を決めた母が、次に向かったのが「蛇塚」の一軒の小屋でした。
そこは戦時中に配給物資を保管していた「味噌小屋」で、三畳位の土間と四畳半の畳間しかない狭小な空間に親子で3人で暮らす生活が始まります。電気は通っていましたが水道も台所も、もちろんトイレもありません。水は歩いて3分ぐらいのところにある沢から汲んでました。

問題はトイレです。「小さい方」は外で済ませられますが、「大きい方」はそうはいきません。真っ暗な夜、30メートルほど離れた場所にある例の「巨大な共同トイレ」まで、母と二人、懐中電灯を手に通う日々。3歳から4歳の子供にとって、それは怖くて、切ない夜の道行でした。
なぜあんな山の中に、これほど大きなトイレがあったのか。当時は不思議でなりませんでした。しかし、外山の歴史を追う今、あれこそが御料牧場の数少ない「遺構」であったのだと確信しています。

蛇塚の「味噌小屋」と、闇に浮かぶ懐中電灯

蛇塚での生活は、かけがえのない出会いもありました。私たちの住む小屋のすぐ裏手には、後に「開拓詩人」として知られる伊藤勇雄氏の一家が住んでいました。
勇雄氏の家族がパラグアイに移住するまでの間、私は五男の玄一郎氏や六男の拓次郎氏とともに、蛇塚の地を鼻を垂らしながら無邪気に駆け回って遊びました。後年まで続く伊藤家との深い絆は、まさにこの蛇塚という場所から始まったのです。

現在、外山には御料牧場の面影を留める痕跡は、蹄鉄を打つ鍛冶場の建物だけで、今にも朽ち果てようとしています。かつての栄華を裏付ける決定的な証拠は、三浦先生から託された数枚の古い写真のみ。

このあまりに寂しい歴史の断絶を前に、私は「このままではいけない、何とかしなければ」と突き上げられるような憤りを感じていました。暗中模索のなか、必死に考えを巡らせていたその時、ふとした瞬間に「!」一つの妙案がひらめいたのです。

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