夢のディスカッション:「薮川に何ができるか?」
未来への熱い確信と、お酒が最高潮に達した私たちは、「活性化が成功したという前提で、薮川地区の特性を活かし、何が出来るか?」というテーマでディスカッションを始めました。「実現にできる、できない」は抜きにして、「何が出来て、何がしたいか」を語り合ったのです。
各々が様々な視点から色々なことを提案し、大いに盛り上がりました。(どのような内容だったかは、また後の機会に)玄一郎(げんいちろう)氏の今後の予定を尋ねると、しばらく日本に滞在するとのことでした。日本に戻ってきたのは、作家・武者小路実篤が設立した「新しき村」の村外会員の方と活動をするためで、後日、その村外会員の方を紹介してもらうことになりました。
その後は、故郷である外山へ行く予定で、その際は、私の車で一緒に行くことが決まりました。こうして、空が白みはじめた午前4時近くまで語り合い、三里塚の桜まつりから始まった長丁場の一日は終わりました。
外山の夜明けは近いぜよ
明治維新後の日本の西洋近代化を推し進めた大久保利通。そして、外山で牧場長を務めた一條牧夫氏や新山莊輔氏といった明治を生き抜いた先駆者の後ろ姿を垣間見た私は、坂本龍馬ではないものの、「外山の夜明けは近いぜよ」と心の中で思わず呟きました。
そして、宮沢賢治の詩『北上山地の春』の末尾にある文面、「かゞやかな石竹いろ」を「かゞやかな桜いろ」になぞらえ、「(前文略)しかもわたくしは このかゞやかな桜いろの時候を 第何ばん目の辛酸(しんさん)の春に数へたらいゝか」と締めくくりました。
※ちなみに、「辛酸(しんさん)」という言葉はこの探訪を通じ知りました。意味は、食べ物の辛さと酸っぱさが、つらい経験や苦労を比喩的に表したものとのことです。そして、この「辛酸」という言葉を、嫌と言うほど味わうことになる舞台の幕が、静かに上がり始めていました。
おまけ①「21世紀遷都論」とは
21世紀にふさわしい新しい国土構想
早稲田大学の「二十一世紀の日本研究会」が発表した「21世紀遷都論」は、東京への一極集中を是正し、東北地方に新しい首都「北上京」を建設するという大胆な国土再構築の提案でした。目的は、災害に強く持続可能な国土構造を実現し、21世紀の日本にふさわしい分散型社会を築くことにありました。
遷都が必要とされた背景
当時の東京は、政治・経済・文化の中枢機能が過度に集中し、地震などの大規模災害が発生した際には、国全体の機能が麻痺する危険性が指摘されていました。また、都市化の進行によるヒートアイランド現象の深刻化や、交通渋滞・大気汚染など過密化に伴う問題も顕在化していました。
一方で、地方は人口減少や経済停滞が進み、地域間格差が拡大していたため、国土の均衡ある発展が求められていたのです。
新しい首都「北上京」の構想
研究会は、新しい首都の候補地として岩手県の北上山地、特に盛岡市の北東約20kmに位置する薮川高原を挙げ、「北上京(ほくじょうきょう/きたかみきょう)」と名付けました。
この地域は自然環境に恵まれ、地震などの災害リスクも低く、首都機能を移転するのに適した地と考えられました。構想では、国会や中央官庁などの政治・行政機能を全面的に移転し、東京は経済・文化・国際交流の中心として引き続き重要な役割を担うとされました。
北上京の理念と特徴
新都市の理念には、「アニマルから人間へ、ピラミッドから網の目へ」というスローガンが掲げられました。これは、中央集権的な社会構造から脱却し、人と自然が調和する分散型社会を目指すという考え方を示しています。北上京は、過密を防ぎ、緑豊かで安全な都市として構想され、自然と共生する新しい生活様式を提案するものでした。
遷都論が与えた影響
この提案は政府主催の「明治百年コンペ」に応募されたもので、後に政府内で本格的に検討が進められた首都機能移転論の出発点となりました。国会移転等審議会の設置などにも影響を与え、単なる都市計画ではなく、日本社会を「一極集中型」から「ネットワーク型」へと転換させる思想的な提言として評価されています。
おまけ②外山早坂高原:バブルと共に弾けた夢の物語
もし「遷都」が実現していたら
「たられば」の「もし」の話になりますが、21世紀に日本の首都がこの北上(きたかみ)地域に「遷都」する計画が実現していたら、間違いなく私のところに地域の活性化協力の依頼は来なかったでしょう。薮川(やぶかわ)地区に突然降って湧いた、壮大な希望と、その後の悪夢。その始まりは、半世紀以上前にさかのぼります。
遷都論と日本列島改造論がもたらした熱狂
物語は、薮川のシンボルともいえる岩洞湖が誕生した1960年(昭和35年)から動き出します。翌1961年(昭和36年)には、周辺地域が外山早坂高原県立自然公園に指定されました。その10年後の1971年(昭和46年)、まだ道路も未舗装だったこの薮川地区に大きな注目が集まります。早稲田大学のチームが発表した『21世紀遷都論(北上京遷都)』が、内閣総理大臣賞を受賞したのです。
時の田中角栄総理
そして翌1972年(昭和47年)には、時の田中角栄総理が自身の政策の柱として『日本列島改造論』を発表し、地方開発への期待が一気に高まりました。この一連の出来事により、薮川地区はちょっとしたバブル景気に突入し、土地が高騰します。岩洞湖の周辺は、有名ホテルや多くの大企業が投機目的で買いあさる事態となりました。
地元の伊藤東雄氏(伊藤勇雄氏の次男で不動産業を営んでいた方)もこの大きな波を見逃さず、避暑地やリゾート開発を目指して、薮川地区を「理想郷」にするべく奮闘しました。戦後に入植した開拓者の中にも、自分の土地を売却し、離農して盛岡市に移り住む人が現れるなど、地域全体が開発・発展・活性化を信じて疑いませんでした。
自然公園指定という名の「急ブレーキ」
しかし、この夢のような計画に急ブレーキをかけたのが、先に指定されていた「外山早坂高原県立自然公園の指定」でした。自然公園に指定されると、優れた風景や自然環境を保護・維持することが目的となるため、厳しい規制が適用されます。特に開発や建築などの行為を行う際には、県知事の許可や届出が必要になるのです。
当時、地元の住人たちは「自然公園になれば観光客が増え、観光産業が参入して地域が活性化する」と説明を受け、それを信じて公園認定申請の同意書にハンコを押しました。
しかし、現実は異なりました。一度指定された規制は厳しく、その後、開発の許可が下りることはありませんでした。開発はおろか、毎年固定資産税を払っている自分の土地であっても、勝手に手を入れることすらできなくなってしまったのです。私が子供の頃、地元の人々が何度も許可申請や自然公園指定解除をお願いしても、それが覆ることはなかったといいます。
残された悪夢
やがて、不動産王として一時代を築こうとした伊藤東雄氏は、売れなくなった多くの土地を抱え、借金王となり会社は倒産。こうして、薮川地区の夢のバブルは弾け、悪夢だけが残ったのです。
明治維新以来、原生林を切り開き、牛・馬・人が入って開墾したことで、眠っていた高原植物が花開いたという歴史を持つ薮川地区。しかし、指定から60年以上が経過した今の外山早坂高原県立自然公園は、人の管理が行き届いているわずかな場所以外、高原植物は消え、熊笹が生い茂る有様です。
間伐(かんばつ)もできなくなった木々は細く伸び放題となり、「これが本当に自然公園なのか?」と思うほどに変わり果てています。県民の税金で維持されているにもかかわらず、観光客は誰一人として訪れない公園となり果ててしまっているのが、この地域の現実なのです。
約束の舗装道路、どこ?
朽ち果てた看板 2
誰も来ない静かなキャンプ場
自然公園、崩壊の象徴
2007年(平成19年)6月 池上先生の本に巡り合い9年目。外山の散らばっていた歴史のジグソーパズルを集めはめ込み歴史の全貌が表に出たことで、依頼主である玉山村村長 工藤久徳氏に最終報告。ですが、2006年(平成18年)1月 玉山村は盛岡市に編入合併で、窓口が盛岡市に変わった事を告げられます。















