探訪経緯13-1(理想郷)

三里塚から届いた案内状

2005年の「三里塚さくらまつり」は、スケジュールの都合で参加できませんでした。翌年、2006年3月、新島様から案内状が届きます。4月8日の土曜日に行われる、銅像の清掃奉仕とお花見会への招待でした。この頃の私の頭の中は、新島様と出会って以来、一つの考えで一杯でした。

それは「宮内省管轄の御料牧場」になった時点で、外山地区だけが日本政府・内閣から独立した組織になり、日本国内でありながら治外法権のようになった、いわば「一つの国の誕生」についてです。

「一つの国の誕生」外山御料牧場? = 宮沢賢治のイーハトーブ? = 理想郷?

賢治の代表作『注文の多い料理店』は1924年(大正13年)12月1日に刊行されました。その新刊案内の最後の一文がずっと気になっていたのです。「(前文略) じつにこれは著者の心象中に、このような状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。

「実在した(過去形?)ドリームランド(夢の国土?)としての、岩手県の姿」とは一体何だったのか?『注文の多い料理店』が刊行された時、外山御料牧場は既に閉場していました。私は、賢治が訪れていたであろう牧場について、その管轄や役割を少しずつ理解し始めていましたが、この時代の外山の人々がどのような生活を送っていたのか、もっと調べる必要があると感じていました。

宮沢賢治が思い描いたイーハトーブとは何だったのか。私は盛岡工業高校演劇部で一つ下の後輩であり友人の葛西氏と、外山御料牧場の謎を解き明かしながら、理想郷について語り合っていました。

葛西氏が教えてくれた「理想郷」のホームページ

そんなある日、葛西氏が「理想郷」に関する面白いホームページがあることを教えてくれました。そのホームページを見て驚きました。なんと、パラグアイに移住した伊藤勇雄氏の理想郷に関するサイトだったのです。全世界の理想郷が紹介されており、その中には宮沢賢治のイーハトーブの記載もありました。

「ね、面白いホームページでしょう?」ホームページの作成者は伊藤玄一郎とありました。 「伊藤玄一郎?」と私は心の中で叫び、ホームページの内容をじっくり確認すると、伊藤勇雄氏の五男である伊藤玄一郎氏が、パラグアイでの父の生涯を紹介していることが分かりました。

幼馴染との再会、そして「大どんでん返し」へ

「え、マジで?このホームページ、玄ちゃんが作ってるの!」と驚いて葛西氏に言うと、「え、知ってるんですか?」と逆に聞かれました。「知ってるも何も、俺が小さい頃、一緒に遊んでもらった人だよ」牧場の跡地を走り回って遊んでいた、幼馴染との思い出が蘇りました。

伊藤勇雄氏を知らない葛西氏に、私は彼のことを説明しました。戦後、食料開拓のために外山へ移住してきたリーダー的存在で、日本では理想郷が実現できないとパラグアイへ移住した人物であると。外山御料牧場の事務所があった蛇塚に伊藤家があり、そのすぐ近くの味噌小屋で暮らしていたこと。

勇雄氏とは私が2〜3歳の頃に会ったことがあるものの記憶にはありませんが、8歳上の玄一郎氏と、私と年が近い(2歳上)の弟の拓次郎氏とは、蛇塚を駆け回っていた幼馴染だったのです。母は勇雄氏にパラグアイへの移住を勧められたそうですが、兄弟に猛反対されて断念したこと。伊藤家がパラグアイに移住した後も、日本に残った次男の東雄氏とは家族ぐるみで親しくさせてもらったことなどを話しました。

玄一郎氏のホームページはとても興味深いものでした。宮沢賢治と外山御料牧場を追いかけていた私の探究に、突然、伊藤勇雄氏が加わった瞬間でした。この時はまだ、伊藤勇雄氏は外山御料牧場とは全く関係ない人物だと思っていました。しかし、この探訪の後半で、賢治と繋がる大どんでん返しがあるとは、夢にも思っていませんでした。

偶然の再会と新たな約束

発信者の玄一郎氏のことが無性に気になり、後日、母に電話をかけました。 「パラグアイに行った玄一郎さん、今どうしてるか分かる?」 母は「日本に残った伊藤家の親族に確認してみる」と電話を切りました。すると翌日、連絡がありました。

「玄一郎さん、4月上旬に日本に来る用事があるんですって」 これを聞いて、私は「グッドタイミング!」と叫びました。そして母から聞いた携帯電話の番号に、すぐに電話をかけました。

これまでの活動をかいつまんでお話し、幼い頃に遊んだ外山の蛇塚にあった御料牧場の話をした上で、到着後にどうしてもご案内したい場所があるので、お時間を作っていただけないかとお願いしました。玄一郎氏は快く了承してくれました。さらに、「話したいことがたくさんあるので、古河の家に泊まっていただけませんか」とお願いすると、これも快諾していただき、スケジュールが決定しました。

新島様には、4月8日の「三里塚さくらまつり」に出席することを伝えました。午前中の銅像清掃奉仕は、玄一郎さんを迎えに行くため参加できず、午後のお花見会から参加する旨をお伝えしました。

2007年(平成19年)6月 池上先生の本に巡り合い9年目。外山の散らばっていた歴史のジグソーパズルを集めはめ込み歴史の全貌が表に出たことで、依頼主である玉山村村長 工藤久徳氏に最終報告。ですが、2006年(平成18年)1月 玉山村は盛岡市に編入合併で、窓口が盛岡市に変わった事を告げられます。

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