明治29年(1896)~大正4年(1915)
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年号 | 外山関連 | 宮沢賢治 |
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明治29年(1896) | ◆5月 岩手種馬所(後の岩手種馬育成所)を岩手郡厨川村に開設。 | ・8月27日岩手県稗貫郡里川口(現花巻市)に誕生。父は政次郎、母はイチ |
明治31年(1898) | ・外山御料牧場 第1期成業祝典を挙行。第2期事業開始(明治36年まで)。◆県は種馬厩(後の岩手県種畜場)を盛岡市内丸に開設 | |
明治32年(1899) | ・新山場長退任。菅沼只三郎が場長に任命。蛇塚に事務所、種馬厩・牝馬厩等が落成。「外山」の事務所を閉鎖し「蛇塚」へ本部を移転。・蛇塚事務所と旧外山事務所間に電話を架設。【新山場長(下総)が小岩井農場長を兼務】◆岩手獣医学校と岩手県農事講習所を合併し「県立農学校」改称。 | |
明治34年(1901) | ◆水沢公園南側に円形馬場完成。駒形神社の祭典で春秋競馬が行われる | |
明治35年(1902) | ◆種馬厩を岩手県種畜場と改称。岩手郡滝沢村に移転。◆盛岡高等農林学校創立 | |
明治36年(1903) | ・8月 外山御料牧場第二期成業祝典を挙行。・蛇塚を葉水、葉水を北葉水、外山を柴沢と改称。◆盛岡高等農林学校創立◆競馬会創設。盛岡新競馬場完成(現高松)。閑院宮殿下より「黄金競馬場」の御命名賜る。 | ・4月、花巻川口尋常小学校入学 |
明治37年(1904) | ●日露戦争勃発(翌年終結) | |
明治38年(1905) | ・外山御料牧場は下総御料牧場の所管へ「下総御料牧場外山支場」と改称。◆盛岡高等農林学校開校 | ・小学校3年生。担任の八木英三先生から五来素川翻案、エクトール・マロ原作「家なき子」や、「海に塩のあるわけ」などの童話や民話を読み聞かされる |
明治39年(1906) | ◆馬政局官制が公布。馬政30年計画立案実地 | ・小学校4年生。父の始めた「我信念講話」に参加。この頃、鉱物、植物、昆虫採集、標本作りに熱中。 |
明治40年(1907) | ◆5月 岩手種馬所(後の種馬育成所)を岩手郡厨川村に開設。 | ・4月、高等科1年生(小学校5年生)。担任はクリスチャンの照井真臣乳(まみち)。鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」と呼ばれる。 |
明治41年(1908) | ●東宮殿下(大正天皇)東北御巡敬。(9月29日~10月2日まで盛岡滞在) | ・4月、高等科2年生(小学校6年生)。 ※ 9月30日、皇太子歓迎のため引率され盛岡へ行く。綴り方「遠方の友につかわす」「皇太子殿下を拝す」を書く。 |
明治42年(1909) | ◆水沢公園南側競馬場を東宮殿下の「東」を頂き「東競馬場」と命名。 | ・受験の為母と盛岡紺屋町三島屋に宿泊。・4月、盛岡中学校入学。・父に伴われ寄宿舎自疆寮に入る。招魂社(現八幡神社)参拝。 |
明治43年(1910) | ・6月、植物採集岩手登山隊に参加。初めて岩手山へ遠足。 | |
明治44年(1911) | 4月 騎兵第三旅団が盛岡に設置される。 | ・小岩井農場へ遠足。 |
明治45年(1912) 大正元年 | ●7月 明治天皇崩御。 | ・仙台方面修学旅行。(狐禅寺から川蒸気船で石巻に至り初めて海を見る) この年、「歎異鈔」を読み感動する。 |
大正2年(1913) | ・舎監排斥運動で寮を追われ清養院へ下宿。・北海道修学旅行(函館~小樽~札幌) | |
大正3年(1914) | ・7月 御料牧場は宮内大臣の管理に属し、主馬頭の統理となり、「下総御料牧場外山分場」と改称。●8月 第一次世界大戦勃発。 | ・3月、盛岡中学校卒業。(第28回生)・4月、岩手病院に入院。(5月中旬退院)・9月、「漢和対照妙法蓮華経」を読み感動する。 |
大正4年(1915) | ・4月、盛岡高等農林学校(農学科第二部)入学。寄宿舎に入る。(土曜午後、日曜日は盛岡郊外を散策)■外山の4月の短歌2首創作 |
※ 宮沢賢治、明治41年9月30日、皇太子歓迎のため引率され盛岡へ行く。綴り方「遠方の友につかわす」「皇太子殿下を拝す」を書く。
皇太子殿下を拝す(宮沢賢治)
昨日は私等のいつまでも忘れることができぬ日であります。工兵八大隊の兵営や演習の後を見て来た帰りに私等が皇太子殿下がおいでになるのを拝す為に一列にならんで待って居りますと自てん車に乗ったけいぶが通りその後に人力車で三人通りそれから殿下は、挙手の礼をこの賤しい私等になされましてお通になりました。
あー、雲の上の貴きお方がこの賤しい私等に礼をなさるとは校長さんのお話の通り涙がこぼれるばかりであります。昔は土下座して殿様の顔も見ることができぬ代がどーしてこの如き有難い代になったでせう。この有難い代に生れたにつけても君の為につくさねばなりせん。