C.岩手の馬事に貢献した先人達 1

岩手・盛岡の馬事文化に貢献した先人達

一條 牧夫(いちじょう まきお) 安政5年(1858)~昭和13年(1938)

安政5年(1858)岩手郡東中野村(現:盛岡市東中野)に生まれる。
明治5年(1872年)15歳で上京。後に駒場農学校で畜産学を学んだ。その後駒場病畜舎や下総種畜場で馬の育成にあたる。
明治14年(1881)帰郷、外山牧場顧問(初代牧場長)となり、馬をはじめとする家畜の改良と牧場の整備に尽力した。畜産の発展に生涯を捧げようと志して牧夫と改名。
明治31年(1898)岩手種馬厩を設立。岩手は古くから馬の産地だったが、時代に即した馬の改良の必要性を感じ、フランスからアングロノルマン種を、イギリスからハクニー種を輸入。南部馬と交配させて改良馬を生み出す。『岩手産馬改良の父』と  言われている。
明治34年(1901)岩手種馬厩が岩手県種畜場と改称された際に場長となり、欧州の畜産状況を視察するなど、大正3年(1914)に職を辞するまで一貫して産馬改良に努めた。岩手が馬産地として広く認められる様になったのは、牧夫の努力によるものと言っても過言ではない。

新山 荘輔(にいやま そうすけ)安政3年(1856)~昭和5年(1930)

安政3年(1856)山口県阿武郡大井村(現:萩市大井)に生まれる。
明治13年(1880)駒場農学校獣医科(後の東大農学部)卒業。下総種畜場勤務。下総御料牧場の初代場長として34年間務めた。種畜の改良・繁殖・育成等を通じ飼養管理、治療法等に尽力した事から『日本獣医学の生みの親』と言われている。
明治18(1885)宮内省御用掛に任命、侍従の藤波言忠子爵の随行して欧米に渡る。各国の畜産業の視察と研究に没頭する。明治21年(1888)宮内省下総種畜場は「下総御料牧場」と改称。下総御料牧場第五代場長に任命される。同時に北海道新冠御料牧場長を兼務。
明治24年(1891)岩手県外山御料牧場長に任命され下総・新冠・外山の御料牧場を兼務。明治32年(1899)に小岩井農場の経営が岩崎久弥に引き継がれると主馬頭の藤波言忠を相談役に、経営監督を新山荘輔に依頼。
昭和5年(1930)11月7日鎌倉の別荘にて永眠。七十四歳の生涯を閉じる。

藤波 言忠(ふじなみ ことただ) 嘉永6年(1853)~大正15年(1926)

嘉永6年(1853)京都生まれ。広橋胤保の子。藤波教忠の養子。天皇の学友として七、八歳のころより宮中に出仕した。
明治7年(1874)年一月宮内省九等出仕となり天皇の講学に陪席した。
明治10年(1877)侍従試補に、明治12年(1879)には侍従になる。
明治17年(1884)子爵を授かる。馬に対しすぐれた鑑識眼があり新冠牧馬場御用掛などを経て、明治18年7月に御厩制度等調査の為、欧米に派遣される。滞欧中オーストリアでドイツ人学者スタインの講義を受け、帰国後明治20年11月より天皇、皇后に憲法学を進講している。
明治20年代以降下総御料牧場、新冠御料牧場、外山御料牧場、小岩井農場を充実拡大し馬産界の発展に尽くす。
明治22年7月~大正5年(1916)宮内省主馬頭を勤め、日露戦争前後の馬政の中心人物として、馬券黙許の競馬開催の実現や馬匹改良30年計画の推進にも努めた。明治37年宮中顧問官となる。明治天皇・昭憲皇太后両方の崩御の時にどちらとも大喪使事務官を務め、大正天皇の大礼使車部長を務める
大正5年(1916)主馬頭を辞め、宮中顧問官・貴族院議員になる。同年に明治天皇皇紀の編修に尽くしたが明治天皇皇紀を完成する前の5月25日永眠。享年七四歳。馬の鑑定に長じ、また和歌を好んだ。

三浦 定夫(みうらさだお) 明治45年(1912)~平成13年(2001)

『外山開牧百年史』の著者。詳細は「外山牧場について」のページをご覧下さい。

池上 雄三(いけがみゆうぞう) 昭和16年(1941)~平成16年(2004)

『宮沢賢治・心象スケッチを読む』の著者。詳細は「賢治と外山(池上雄三)」のページをご覧下さい。