外山神社と牛馬魂碑設立、駒踊りの移入
外山部落は三〇余年間、宮内省が経営していたところで、四十三戸の住居者のほかに民家もあるけれども、子供たちが生れても初詣でをする神社もなく、住民永住の地としては、まことに遺憾なことであった。また明治九年以来、同地において死亡した数千頭の、本県畜産に功労のあった種牛馬の霊の供養などもなさねばならず、かく考えてくると、永遠の策を樹てねばならない。私はそこで事情を訴えて、県内畜産家にその資金を募ったところ、直ちに二千七百円の寄付が集まり、それをもって神社を設立し、天照皇太神(あまてらすすめおおかみ)を祀った。
また、後藤知事の揮毫を乞うて、牛馬魂碑を立て、大野村より駒踊りを移入し、八月十七日には来賓多数の来場を得て、厳粛な祭典を施行する事ができた。神社に対しては、主馬頭伊藤博邦(伊藤博文の養嗣子)公の賛同を得、宮内省より銀覆輪(ぎんぶくりん)の輪鞍一背を宝物として頂き、津村林野局東京支局長のご尽力により、伊勢太廟用材の一部を送っていただき、額を納め、残木にて守札を作って寄付者に配布した。以来今日まで、外山神社の祭典は八月一七日に例祭日として施行せられているのである。 (足澤勉場長 思い出の記より)
提供:足澤家所蔵
駒踊り
遠く南部領内では畜産がさかんに行われて、南部馬の名声を高めていたが、この踊りは青森県八戸地方から岩手県北部一帯の大野村・軽米町・岩手町にかけて伝えられている。
内容は、放牧中の馬の動作を基本にして逞しさと愛らしさを巧みに表現した踊りである。古くは野馬取りを擬して始められたともいわれている。やがて江戸時代の子供たちの玩具として流行した竹馬遊びが集団化したのが現在の駒踊りの起りとなった。外山駒踊りは、大正時代に岩手県種畜場の足澤勉場長が大野村から外山へ移入。昭和に入ってから滝沢へ伝わる。
◎踊りの型は、放牧してる馬の様々な動きを捉えたもので、
・放牧地でゆっくり歩いているところ
・放牧地で歩きまわり、
歓びたわむれているところ
・水飲みに集まってきたところ
・水を飲んで一段と元気になって牧場を
駆け巡り遊んでいるところ
・遊び疲れて歩いて帰るところ
◎踊り手の駒7頭に駒曳きが1人つき、
ササラと木馬の手綱についた鈴の音を
響かせて踊るしぐさは、子供たちだけの
踊りとしても勇ましいものである。
外山小学校
盛岡市立外山小学校と同薮川中学校の閉校式が3月16日、両校で行われ、地域住民や同窓生ら約250人が出席しました。外山小学校は明治20年に薮川簡易小学校外山分教場として開校。127年で938人の卒業生を輩出しました。
薮川中学校は、平成10年に玉山村立外山中学校、同薮川中学校、同校亀橋分校が統合し開校。16年で38人の卒業生を輩出しました。出席者が校歌を斉唱。教育や、地域活動の拠点として愛された両校は、惜しまれながら長い歴史に幕を閉じました。