歴史の暗と明
はじめに
皆さんは、戦争の事、馬の事を何処まで知っているでしょうか?宮沢賢治が保阪嘉内に宛てた手紙から外山の歴史探訪がはじまったのですが、恥ずかしながら外山で育ったはずの私は、外山の歴史も外山が馬産地の故郷である事も、探訪を始めるまで何一つ知りませんでした。
私の馬との記憶は冬に馬そりで保育園に通ったくらいで、馬とは無縁の生活でした。外山は馬産地だったと話には聞いていましたが、馬とは全く無縁の生活で身近なものではない為、外山開牧百年祭で駒踊りをしたくらいで、馬にはまったく興味もなく無知でした。
日本の戦争(戊辰・西南・日清・日露・日中・太平洋)については、教科書に書かれていた程度の認識で、長崎と広島の原爆も、東京大空襲も終戦記念日も戦争経験者の親からの話。漫画や小説、ドラマや映画などで悲惨な状況だった事は認識をしてはいても平和ボケなのか戦争とは私にとってどこか遠い存在でした。
盛岡市には馬に関する歴史もなければ資料もない。知っている人もいなくなり。教えてくれる人も居ない。探訪で故郷の外山を調べなかったら、私は一生、戦争の事や軍馬の事を知る事はなかったと思います。明治維新後から馬と共に歩んで来た外山の歴史の全貌をしり最終的に辿り着いたのは軍馬でした。
あまりにも悲惨で、せつなく、悲しく、知らなかった事を恥、教えてくれなかった事に憤りを感じ、何のための戦争だったのかと考えさせられました。「物言わぬ活兵器」と呼ばれた軍馬を生み出したのは、まぎれもなく私の故郷外山です。その事実を知らなくても今現在、生活に支障がないのでこのままで良いのかも知れませんが、それでいいのでしょうか?
歴史の暗(軍馬が誕生した経緯)
欧米諸国から開国を迫られ開国。明治政府は、欧米諸国が東アジアに勢力をのばしていることに危機感を強め、軍事力や経済力に優れた欧米諸国に対抗する防衛の為「 富国強兵 」のスローガンの下、大日本帝国憲法を制定し産業の発達と軍事力の強化を目指します。
欧米諸国との遅れを取り戻す為、海外に進出し世界情勢に大きくかかわる事になっていきます。明治27~28年(1894~95)日清戦争。多くの犠牲を払いかろうじて勝利するも欧米列強と日本との間における歴然とした軍馬の資質差が問題となり、馬の改良が喫緊の課題となります。
岩手では外山御料牧場が中心となり明治29年~36年の間に、滝沢村に種馬育成所、胆沢郡相去村に軍馬補充部六原支部、水沢馬場、盛岡高等農林学校、盛岡新競馬場と馬に関する施設を設置し、日本の技術者と頭脳を岩手に終結させ品種改良をめざします。新たな開拓が始まりです。
明治37~38年(1904~05) の日露戦争。日清戦争から9年間で品種改良できるわけもなく小さな南部馬のままで、日清戦争以上多くの犠牲がはらいながら、非常に苦しい戦いで日本の勝利となりました。
日本の軍馬は外国馬に太刀打ちできないことに愕然とした明治政府は、猛然と馬改良に乗り出します。明治39年 馬政局官制が公布。厨川村に種馬所、盛岡に騎兵第三旅団と岩手ではあらゆる機関を次々に設置し、外山御料牧場が閉場した大正11年の約40年あまりで在来種の南部馬はこの世から消えてしまい軍事色が濃厚になっていきます。
同年代の宮沢賢治、保阪嘉内、伊藤勇雄は生まれてから青春時代の出来事になります。
馬政局
日清戦争・日露戦争を通じ、欧米列強と日本との間における歴然とした軍馬の資質差が問題となり、関係者の間でその改良が喫緊の課題となった。時を同じくして1904年4月7日、宮中午餐会の席上にて明治天皇より「馬匹改良のために一局を設けて速やかにその実効を挙ぐべし」との勅命が下り、これにより臨時馬制調査委員会が設置され、宮内省主馬頭藤波言忠及び獣医学者新山荘輔らを中心として馬匹改良を担う行政機関の設置が図られ、明治36年(1906年)5月30日 馬政局官制が公布、馬政局が設置された。
種馬所・種馬牧場・種馬育成所の設置
明治36年(1906年)~明治45年(1912年)にかけて、全国に5つの種馬所、2つの種馬牧場、1つの種馬育成所が設置された。従来の日本の馬産は地区ごとに繁殖が行われており、馬の特徴は地区ごとに大きく異なっていた。そのことを踏まえた上で馬匹改良を実現するべく、全国の馬産地を乗馬産地、軽輓馬産地、重輓馬産地、小格輓馬産地に分類し、それぞれの馬産地における国有種牡馬の供用方針を策定した。
陸軍省軍馬補充部六原支部
明治31年(1898)、現在の金ケ崎町六原地区に旧陸軍省軍馬補充部六原支部(現在の岩手県立農業大学校)が設置されました。当時の相去村村長、桑島重三郎氏の尽力によるもので六原、西根、二ッ森に厩舎を構え、多い時には約1,000頭の軍馬を育成していました。種山高原は夏季放牧の放牧地として利用されました。
軍馬補充部は軍馬の育成や調教を主とした軍部です。人を乗せる乗用馬、荷物を引く輓用馬、荷物を背負う駄用馬の3つの区分に分けられていました。大正14年(1925)10月、軍備縮小に伴い軍馬補充部六原支部は廃止されました。現在は、国登録有形文化財『軍馬の郷六原資料館』(2017年登録)として当時の官舎が保存されています。
陸軍騎兵第3旅団第23連隊司令部
騎兵第3旅団(第23・第24騎兵連隊)
騎兵第3旅団は1909(明治42)年に、弘前の陸軍第8師団から分離編成された。第8・第23・第24騎兵連隊から成り、第8騎兵連隊は弘前、第23・第24騎兵連隊及び旅団司令部は盛岡に駐屯した。盛岡の青山地区へは1908(明治41)年、工兵第8大隊が弘前から転営し、軍駐留の地としての歴史が始まった。盛岡市民の誘致運動が実って同大隊が転営し、第23、24連隊が駐屯したほか観武ケ原練兵場、一本木原演習場が設置された。
【第8師団創設】1898(明治31)年の陸軍第8師団の創設。日清戦争に勝利した日本は、満州(中国東北部)の支配権をめぐってロシアと対立した。政府はロシアとの緊張関係を背景に、清国からの賠償金の約6割を軍備拡張費に充てて軍備拡張を進めた。陸軍はこれまでの6個師団(近衛師団を除く)に加え第7から第12までの6師団を増設することとした。その一つが弘前第8師団である。
【軍都弘前の誕生】陸軍師団は軍隊として必要な施設をすべて備え、単独で戦争を継続できる能力を持つ最小の戦略単位である。兵員は平時でも1万人を超え、戦時には2倍に増強される。第8師団は師団司令部、輜重(しちょう)兵第8大隊、衛戍(えいじゅ)病院・憲兵隊など主要な施設を弘前市富田町に、歩兵第31連隊を中津軽郡千年村(現弘前市)に置いた。ほかに歩兵第5連隊(青森市)や歩兵第17連隊(秋田)、騎兵第8連隊(盛岡)などが第8師団の指揮下にあった。兵士は青森・秋田・岩手の各県から徴兵された。
【第8師団創設】1898(明治31)年の陸軍第8師団の創設であった。日清戦争に勝利した日本は、満州(中国東北部)の支配権をめぐってロシアと対立した。政府はロシアとの緊張関係を背景に、清国からの賠償金の約6割を軍備拡張費に充てて軍備拡張を進めた。陸軍はこれまでの6個師団(近衛師団を除く)に加え第7から第12までの6師団を増設することとした。その一つが弘前第8師団である。
【軍都弘前の誕生】陸軍師団は軍隊として必要な施設をすべて備え、単独で戦争を継続できる能力を持つ最小の戦略単位である。兵員は平時でも1万人を超え、戦時には2倍に増強される。第8師団は師団司令部、輜重(しちょう)兵第8大隊、衛戍(えいじゅ)病院・憲兵隊など主要な施設を弘前市富田町に、歩兵第31連隊を中津軽郡千年村(現弘前市)に置いた。ほかに歩兵第5連隊(青森市)や歩兵第17連隊(秋田)、騎兵第8連隊(盛岡)などが第8師団の指揮下にあった。兵士は青森・秋田・岩手の各県から徴兵された。
明治の馬政 年表
明治24年(1891) | 「外山御料牧場」開牧 |
明治27年(1894) | 7月25日 日清戦争勃発 |
明治28年(1895) | 4月17日 日清戦争終結 10月 馬匹調査会は、馬産に関する各部門について検討。1馬匹改良の方針、2種馬牧場及び種馬所設置、3種馬の選定、4種馬の検査、5産馬組合、6産馬奨励 |
明治29年(1896) | 4月 種畜場及び種馬所管制が公布 5月 岩手種馬所(後の岩手種馬育成所)を岩手郡滝沢村に開設。 ●陸軍省は軍馬を補充するために軍馬補充部を設置 |
明治31年(1898) | ◆県は (後の岩手県種畜場)を盛岡市内丸に開設 ◆陸軍省は軍馬補充部六原支部を岩手県胆沢郡相去村六原に設置 |
明治32年(1899) | 蛇塚に事務所、種馬厩・牝馬厩等が落成。「外山」の事務所を閉鎖し「蛇塚」へ本部を移転。・蛇塚事務所と旧外山事務所間に電話を架設。【新山場長(下総)が小岩井農場長を兼務】 ◆岩手獣医学校と岩手県農事講習所を合併し「県立農学校」改称。 |
明治34年(1901) | 盛岡市内丸の種馬厩を岩手種畜場と改称。外山御料牧場は育馬を務める方針により畜牛の改良増殖を廃止 ◆水沢公園南側に円形馬場完成。 |
明治35年(1902) | ◆種馬厩は岩手郡滝沢村に移転。 ◆3月27日盛岡高等農林学校設置 |
明治36年(1903) | ◆競馬会創設。盛岡新競馬場完成「黄金競馬場」の御命。8月陸軍大臣より農商務大臣に対し「平戦両時陸軍所要馬数の事」「軍馬資格の事」等、馬匹改良に関した14項目について要望 |
明治37年(1904) | ●2月8日 日露戦争勃発 4月7日 明治天皇より「馬匹改良のために一局を設けて速やかにその実効を挙ぐべし」との勅命 9月 臨時馬制調査委員会を設置 |
明治38年(1905) | ●9月5日 日露戦争終結 |
明治39年(1906) | 5月 馬政局官制が公布、設置。馬政30年計画立案実地 |
明治40年(1907) | ◆5月 岩手種馬所(後の種馬育成所)を岩手郡厨川村に開設。同時に岩手種馬育成所を岩手種馬所跡地に設置 |
明治42年(1909) | 4月、騎兵第三旅団が盛岡市に設置 10月26日ハルビン駅で、伊藤博文が暗殺 ◆水沢公園南側競馬場を東宮殿下の「東」を頂き「東競馬場」と命名。 |
明治45年 (1912) | ●7月30日 明治天皇崩御。大正天皇即位 |