A.馬事文化を巡る外山探訪 5

競馬場 岩手

黄金(こがね)競馬場

岩手県産馬組合連合会が長い年月をかけ、各郡の代表や馬産関係の篤志家に呼びかけて競馬会の創設を実現、寄付を募って明治36年盛岡市上田に「近代的」な1周千メートルの馬場を完成、記念競馬を盛大に開催しました。その直後、日本赤十字社岩手支部の総会があり、そのころ、同社総裁でもあった閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)がおいでになられたので、特別競馬会を開催しました。

親王は競馬会にご臨席され、「黄金競馬場」と命名されて、特に金100円を下賜されています。この名称の由来は、明治天皇が明治9年に東北をご巡幸されたとき、お召替所となった場所に清水が湧いており、これをご膳水に使われたので「黄金水」と呼ばれていた清水があり、そのゆかりの地の近くに新競馬場ができたので、これにちなんで競馬場が栄えるようにと名付けられました。

昭和8年、岩手県産馬組合連合会は、黄金競馬場を、毛無森(盛岡市緑が丘)に移転し、全国の関係者、ファンを招いて盛大に新設記念競馬会を開催し、「黄金競馬場」の名を大いに高めました。

ちなみに、品種改良の良馬(より速く・より高く・より強く)をどこで品定めをしたのか?それは、地方競馬発祥の地「黄金競馬場」(明治9年明治天皇が御巡幸の御野立所だった黄金清水が近い事から)で行われました。競馬はギャンブルと思いがちですが、盛岡競馬の場合は南部曲がり屋で手塩にかけ育てた「馬のオリンピック」会場になります。

『もりおか物語』より抜粋

黄金水について

榊原 黒石野のもとの小学校跡を過ぎると、まもなく登り坂となる。ここは明治九年(一八七六)の明治天皇の東北巡幸にあたって開さくした新道であるが、曲折した坂道を登りきった向かい側のところに黄金”という清泉が湧いている。

この黄金水からいよいよ山道にかかるので、明治天皇の御巡幸の際には、明治九年(一八七六)にも明治十四年(一八八一)にも、ここで綾織の純白の御服にお召し替えなされて馬上に召されたということで、盛岡を去る一里二十九町のところである。

明治九年の御巡幸のとき御召替所となった黄金水の所有者は坂井政明氏であったが、そののち坂井氏は移転して家屋も取り払われて、その後の所有者池野末次郎氏は、黄金水西方の低地に庵室を設けて記念碑を建てたのである。その記念碑には、つぎのような碑文がある。「明治九年、車駕北巡、此の水をもって御膳水に充つ。清冽掬すべし。当時、余は属従の中に在り。今を距たる廿二年、恍として世を隔つるが如し矣。正四位金井之恭」。

提供:一条家所蔵

なお玉山村上田青年親交会は、大正四年(一九一五)十一月十一日黄金水のかたわらに、「明治天皇駐蹕之所」と石に刻んだ記念碑を建てている。上田村黄金水は、標高二七一メートルの大森山の西麓に清らかな湧水をたたえていて、御用水は長さ三尺・幅二尺・深さ一尺三寸の木枠をつくり、長さ四間の樋を設けてあり、泉水には四尺四方の上屋がつくられている。

小山田 黒石野の奥の池野さんのやしきの中には黄金水”があって、明治天皇にさしあげた清水だそうですな。ここを越えて明治天皇はおかごでられたということで、黄金水から降りていったところに碑があって、ここでお召し替えになって馬上に乗られたということです。そして小野松のどこかで門のようなところをくぐられるとき、頭がぶつかりそうだったので、そこの誰かが「おあたまが、あぶの語うござんす」といったところが、あとでその者 がよく注意してくれたというので、金一封を貰 ったとかいう話を聞いたことがありますよ。

東(あずま)競馬場

1908年(明治41年)に東宮殿下(大正天皇)が、水沢緯度観測所へおいでになられた際、陸中一宮 駒形神社(奥州市)にご参拝され、これを記念して馬場を800m走路に拡張し、1909年(明治42年)に完成しました。東宮殿下が水沢に行啓されたことにちなみ「東」という文字をいただき、「東(あずま)競馬場」と命名されました。

※ 仙北町・駒形神社の場所

探訪実施日:2014年9月17日 /
探訪メンバー:一条八平太氏、新山春一氏、足沢至氏、下田靖司(歴代場長)、中村辰司氏(私)