明治橋(舟橋跡)
「藩政時代、ここは盛岡城下の入口に位置し、北上川舟運の起点であったことから人が集まり物資の流通も多く、奥州道中筋の要所でした。北上川は、この盛岡で雫石川、中津川、簗川と合流し大河の様相を呈し、架橋が難しく当初は舟渡しでしたが、延宝8年(1680)頃にこの場所に舟橋が架設されました。
舟橋は両岸に巨大な親柱と中島の大黒柱を立て、20艘ほどの小舟を鉄鎖で係留し、その上に長さ2間半から3間(約5~6m)ほどの敷板を並べて人馬が往来できるようにしたもので、増水時には敷板を撤収し、舟を両岸に引き揚げて、「川止め」にしました。舟橋は大河に架橋できない当時の知恵であり、明治7年(1874)に木橋の明治橋が出来るまで存続しました。
明治天皇御巡幸
明治9 年(1876)7 月6 日、東北巡幸の明治天皇ご一行が盛岡に到着した。一関から水沢、北上、花巻を経て盛岡入りされた天皇は、市民の歓迎を受けながら仙北町から明治橋を渡られ、菊池金吾邸(賜松園・現老人福祉センター)を行在所(宿舎)とした。肴町から餌刺小路の菊池邸に抜ける御幸新道は、肴町の町並みの一部を取り壊して、行在所の菊池邸に入れるようにした。
盛岡には7 月6~8 日の3 日間滞在され、随行者は岩倉具視、大久保利通、大隈重信などであった。盛岡では仁王小学校での天覧授業、県営の勧業場や菊池金吾経営の岡機業場などの各施設、盛岡八幡宮で400 頭の色とりどりの飾られた南部馬や軍馬の行列をご覧になり、次の訪問地の青森へ向かわれた。
明治天皇東北巡幸(明治9年)
1.明治天皇六大巡幸 (6回のうち、岩手県に2回巡幸している)
第2回 東北巡幸 (福島県・宮城県・岩手県・青森県・北海道) 明治9年(1876)6月2日~7月12日 第5回 北海道・秋田・山形巡幸 (岩手県往路通過) 明治14年(1881)7月30日~10月11日
2.明治天皇東北巡幸(第2回)の目的
1 明治天皇自ら東北地方の民情を視察する。
2 戊辰戦争で反政府軍となった東北地方の人民に、天皇に対する新しい認識を与える。
3 殖産(産業)奨励→近代国家を目指す→明治9年8月 県営外山牧場開牧
4 学事(教育)奨励→近代国家を目指す→明治12年 外山に獣医学舎設立
5 各地の宝物・古美術品・古文書等天覧→後年、文化財の保護へ繋がる
3.東北巡幸に同行した人々総勢148名(当時の明治政府のベストメンバー)
北白川宮能久親王(二品)、有栖川宮熾仁親王(左大臣)、岩倉具視(右大臣)、木戸孝允(内閣顧問)、大久保利通(内務卿)、大隈重信(参議)、他
大久保利通らによる東北開発計画
大久保利通は東北地方の資源に着目し、そうした未開発資源を多く持つ東北地方を、東京に首都を移した明治政府の後背地とすることを目論む。東北本線建設、北上川の改修、港の改修、道路、運路、運河の計画、鉱山開発、第一次産業(牧畜・農業・林業・農耕)。
盛岡八幡宮
盛岡八幡宮の創建は康平5年(1062)に前九年合戦の時、源頼義が戦勝祈願した事が始まりとされています。当初は鳩森八幡宮と称し日戸氏が崇敬していましたが、南部氏が拠点を移し、盛岡城を築く際、鎮守社として再建しました。延宝8年(1680)には青森から南部氏の崇敬社であった櫛引八幡を盛岡城下である現在地に遷座させ「新八幡」と称しました。
明治維新になると盛岡城が廃城となり、城内にあった鳩森八幡宮が櫛引八幡と合祀する形で遷座し、さらに明治22年(1889)に白山神社を合祀しました。現在の社殿は平成9年に造営された比較的新しいものですが、境内には文化9年(1812)に藤田善兵衛秀彭と善蔵情有が造った青銅灯篭(盛岡指定文化財)や神明社、笠森稲荷神社、岩手護国神社などがあり、歴史を感じる事が出来ます。又、盛岡八幡宮にはチャグチャグ馬コや流鏑馬などの神事が受け継がれており盛岡総鎮守として広く信仰の対象となっています。