MENU

探訪経緯14-2(いざ「新冠御料牧場」へ)

衝撃のデジャヴ!「アッ、蛇塚だ!」

翌朝、二日酔いの私たち三人は、いざ新冠牧場へ! いよいよ旧新冠御料牧場の敷地に入ります。道幅が20間(約36m)で、事務所まで7kmも続く直線道路。これが有名な「二十間(にじゅっけん)道路」の桜並木。2,000本以上の桜が咲き誇るその景色に、3人とも「すごい!」ただただすごいの一言。感動の嵐でした。

「外山に植えられた桜もこんな感じだったのかな」と思いながら車を進めていると—あれ?どこかで見た風景。「アッ、蛇塚だ!」本当にデジャヴでした。広大ですが、間違いなく外山の「蛇塚(へびづか)」そっくりなのです。道路脇の草花、木々、そして放牧地の区画ごとに作られた防風林。これはまさしく蛇塚そのもの!

「嘘だろ!」と言葉を失いました。やはり、この新冠と外山は兄弟牧場で間違いない! 満開の山桜の下では、下総同様に花見客がジンギスカン鍋を囲んでいます。ソメイヨシノの三里塚とは違う、山桜の鮮やかなピンク色が目に鮮やかでした。

興奮冷めやらぬ中、「そういえば、外山の桜も5月上旬に咲く。新冠と同じ気候?同じ時期だ!」と気づき、御料牧場の立地に無駄がないことを確信しました。池上先生が言うフィールドワークの重要性を、これでもかと体感したのでした。

巨大すぎる事務所と「水戸黄門の印籠」

新冠御料牧場に到着し、担当の斎藤氏にご挨拶。すると斎藤氏の方から、いきなり「岩手県の藪川外山に御料牧場があったのですか?」と尋ねてきました。

私は「はい、ありました。岩手の人達は誰も知りません。そのために来ました」と答えると、斎藤氏は驚いた様子で続けました。「実は新冠牧場に赴任する前、岩手牧場に勤務していましたが、そのような話を岩手では一度も聞いたことがなかった」と、やはり伝わっていない。

「生まれ育った、私自身も知らなかったくらいですから」と私が返すと、斎藤氏は「本州一寒い薮川外山で、ここ(新冠)と同じくらい寒いところだよね」と、困惑気味の様子でした。

そこで、三浦先生が編纂した『外山開牧百年史』のコピー冊子、私にとっての切り札、まさに「水戸黄門の印籠」を手渡します。そして、百年史をめくり、歴代場長たちの写真の新山場長を指さすと、斎藤氏は「おっ、新山莊輔牧場長」と驚き納得したようでした。

最近、この「百年史」を渡して皆さんが驚く顔を見るのが、正直ちょっとした快感になりつつある私です(笑)。牧畜のプロでさえ知らない事実…外山の歴史がどれほど深く封印されていたのか、その「ハイグレードな霧の深さ」を改めて目の当たりにしました。

次に案内されたのは、今は使われていない旧新冠御料牧場時代の事務所。写真では見ていましたが、近づくにつれて「デカい! とにかくデカい!」雪対策で基礎が高く、扉が2mぐらいある建物でした。(下総の事務所は記念館用に立て直しコンパクトにしたそうです)。

写真でみた外山の事務所も、きっとこれと同じくらいの迫力だったのでしょう。外山御料牧場が確かに存在したことを肌で感じ、下総・新冠・外山の事務所は、間違いなく同じ設計思想だと確信しました。

通常は入れない事務所の中へ特別に入れていただき、高さ4mはあろうかという天井を見上げます。中には、明治から大正期に使われていた品種改良の貴重な器具などがズラリ。これを見て、「本当に国家プロジェクトだったんだな」と、北海道まで来た甲斐を強く感じたのでした。妻も葛西氏も同じ表情でした。

外山に眠っているかもしれない調度品への切ない想い

斎藤さんと貴賓館の前でお別れし、いざ新冠の貴賓館へ。外山の貴賓館は下総に似ていたようですが、新冠はユニークな独特の作り。中へ入ると、まず目に飛び込んできたのは、菊の御紋のランプシェード。そして、外山にも関わりがあったエドウィン・ダンの写真、新山莊輔氏をはじめとする歴代場長たちの写真が、まるで「こんにちは」と出迎えてくれているようです。

館内には、主馬頭伊藤博邦(伊藤博文の養嗣子)公の書、藤波言忠の書と和歌。御料牧場時代の食器や銀のスプーンとフォークが、所狭しと飾られていました。ここは皇室の宿泊所であり、要人をもてなす場所だったのだと改めて痛感しました。「いいな、これが外山にも残っていたらな〜」と、思わず言葉が漏れます。

外山に眠る調度品への切ない想い、そして新たな発見

外山御料牧場は、大正11年11月に突然閉鎖されました。閉場の連絡が急だったため、家具や調度品は持ち出せず、「いずれ取りに戻る」と言い残して牧場近くの竪穴に埋められたという、真偽不明の伝説が残っています。もしかしたら、外山のどこかにまだお宝が眠っているかもしれません。

洋式トイレに見た歴史に共感と発見!

矢印に沿って順路を進んでいくと、目の前にトイレが現れました。
一般のお客様は特に気に留める様子もなく素通りされていましたが、私は思わず立ち止まってしまいました。なぜなら、そこには洋式便器があったからです!

「おお、洋式だ!」心の中で小さく感嘆しました。

現在では当たり前ですが、これは明治後期に設置されたものなのです。その時代の洋式便器を見つけることに、私は大きな驚きを感じたのです。

当時、三つの御料牧場は新山莊輔場長が兼務されており、事務所の造りも似ている。外国の要人が訪れるための貴賓館には、当然ながら洋式設備が整えられていた。つまりというか当然、外山御料牧場にあった貴賓館にも、これと同じ洋式便器が置かれていたことになります。文明も文化も無いと言われていた外山の山の山奥にです。

しかも、本州一寒い外山の冬のトイレ事情を知っている私は、思わず想像しました。「便をためる部分は、一体どれくらいの深さなんだろうか?」「真冬の冷たい便座に座るのには、さぞ勇気が要っただろうな」と、当時の状況が頭をよぎります。

もし、なぜそこまで気になったのか、また当時のトイレ事情に詳しくご興味がある方がいらっしゃいましたら、「汲み取り式トイレの本州一寒い外山のトイレ事情」を掲載しているページ《外山の四季(思い出の手記)》がありますので、ぜひこちらを検索してみてください。

トイレ一つからも、当時の歴史や、要人をもてなすための細やかな配慮が垣間見え、私にとっては大変な発見でした。ちなみに、このトイレは、千葉県にある下総御料牧場の貴賓館のトイレと全く同じものでした。同じ歴史と背景を持つ遺構に出会えたことに、感動を覚えました。

ただただ圧倒されながら新冠の視察を終え、牧場を後にしました。日本にあった3つの御料牧場のうち、戦後2つは歴史が残っているのに、外山だけがない。宮沢賢治が絶賛し、三浦先生が「一番美しかった」と評した外山御料牧場。

その事実が地元から消えていることに、悲しく、悔しい、そして切ない思いを抱きながら、車で二十間道路を帰ります。綺麗な山桜が、まるで私たちを見送ってくれているようでした。

敗者の共通項:南部藩と徳島藩

そして、この旅を通し、私は新たな収穫も得ることができました。吉永小百合さん主演の2005年の映画『北の零年』が、戊辰戦争後、明治政府によって徳島藩(淡路島)から北海道の静内へ移住を命じられた稲田家と家臣たちの物語であり、それが新冠牧場が誕生するまでの歴史であったことを知ったのです。

これは、外山牧場が誕生した旧南部藩と、同じく戊辰戦争で敗れた者たちが新しい土地で苦労を重ねたという境遇を共有していることを示しており、非常に重要な発見でした。

この発見は、私の探求心にさらなる火をつけました。なぜ、岩手の山奥である外山で、このような国家プロジェクトが起こったのか? その謎を解明するためにも、改めて明治維新以降の歴史と皇室について深く学ばなければならないと、決意を新たにしたのです。

2007年(平成19年)6月 池上先生の本に巡り合い9年目。外山の散らばっていた歴史のジグソーパズルを集めはめ込み歴史の全貌が表に出たことで、依頼主である玉山村村長 工藤久徳氏に最終報告。ですが、2006年(平成18年)1月 玉山村は盛岡市に編入合併で、窓口が盛岡市に変わった事を告げられます。

歴史探索の経緯(続き15)へ