伊藤 勇雄【いとう いさお】1898~1975
- 明治三十一年薄衣生まれ。武者小路実篤の「新しき村」に参加。
- 帰村後は「岩手文芸」等を創刊し詩作に励む。
- 千葉七郎と農民運動を進め、岩手県議会議員、岩手県教育委員会委員長など歴任。
- 戦後は紫波郡煙山村、のちに岩手郡玉山村藪川に入植し、その後、南米のパラグアイに新天地を求めて移住。
私は大草原の歌い手 / 伊藤 勇雄
私は大草原の歌い手、
岩手の背骨北上山脈の裏手、
藪川高原の草の中に住み、
多くの牛馬とともに生き、
荒くれた開拓者と酒を酌み、
土を耕し、草刈り木を切り、炭を焼く。
ここで私を待っていたものは何だ。
あらゆるものの欠乏を孤独と寂寥、
電灯もなく、文化もなく、愛すらない。
冷害は毎年のように作物をいためつけ、
放牧の家畜の群れは廔廔、畑を荒らし、
一年間営営辛苦の収穫を皆無にする。
ここに住んでいる多くの開拓者、
それは慣らされていない野獣のような人人なのだ。
口でいうより腕力をもって語ろうとする者、
借りたものを返すことを知らない者、
すきがあれば山の木を盗伐することばかり考えているもの、
他人の山の木を売り払って意に介しないもの、
他人にたかって酒を呑むことはかり探している者、
妻子を飢えさせながら酒ばかり呑んで歩くもの、
詐欺や、強窃盗等は彼等にとっては罪悪ではない。
如何にして生きるかと言う事が問題なのだ。
それほど自然は峻厳にして、
人間生活はみじめなところなのだ。
金が手にはいれば夜を徹し、金がなくなるまで呑み続ける男達、
男に亡従し、文字を知らず、世の中を知らない女たち!
こうした環境の中で私は私の歌を生む。
大草原の原始的な荒荒しさは詩そのものだ。
私の歩くところ、
山兎や狐や狸やかもしかが走り、
私の樹間を分けてのぼるところ、
山には葡萄や山梨が熟してこぼれ、
私が採取する時、しどけ、わらび、ふき、うどなどはたえなる香りを放つ。
馬の大群を遠巻きにして野外に追う春の山は壮観そのものだ。
人は二十数人、八方に散開して数群の馬を追い放つ。
四、五十頭の馬は東に西に逃げまどう。
ひづめのとどろき、太陽の輝き、青草の匂い、かげろうのゆらめき。
牛群を率いて放牧地の山へ登る時の壮快さはまた言語に尽くされない。
放牧地である山頂は一年中お花畑で、百花咲き乱れ、
原始林は欝蒼と茂り、その中に大木倒れ朽ち、
そこから泉はこんこんと湧きあふれている。
この雄大な自然の中に悠悠と草を喰む牛群の美しさは言葉を絶する。
私はダム(湖水)に行ってふねを漕ぎ、
山峡の沢で魚を手でつかまえ、
草原に草を刈り、山で山菜を折り、野生の花をとる。
私の声の一つで馬は野を走り、
牛群は私の前に集まってくる。
私の詩はこの生活の中から生まれるのだ。
それは都会の中で、人間の渦の中で、技巧をこらし、美をてらって出来たものではない。
野生の荒荒しさの中に、素朴にして生まれ出たものなのだ。
私は大草原の歌い手、
岩手の背骨北上山脈の高原の中の歌い手である。
1956年4月11日