新島新吾氏宅訪問 2
地元住人は、なぜ外山御料牧場の事を知らないのか?
大きな疑問だったのが、私をはじめ地元住人はなぜ外山御料牧場の事を知らないのか?の問いに、間髪入れず「守秘義務!」と答えが返ってきました。「守秘義務?」戸惑っている私に宮内省の成立ちを教えて下さいました。
宮内省について
宮内省は、明治18年(1885) 内閣制度の創設に伴い、内閣から独立した機関として位置づけられ、明治22年(1889)大日本帝国憲法の発布とともに、皇室典範が裁定。皇室自律の原則が確立しました。明治41年(1908)には皇室令による宮内省官制が施行され、宮内大臣は皇室一切の事務につき天皇を輔弼する機関とされました。※輔弼(ほひつ)とは、天子や君主などの行政を助けること、またはその人を指す言葉。
戦前の宮内省はで政府・内閣から独立した組織で皇族直属の皇室を守る機関で、指揮権は天皇陛下にありました。
戦後の宮内庁は内閣総理大臣・官房長官の下にあります。外から皇室を監視し皇族に命令する機関です。
これが何を意味するかと言えば、明治24(1891)外山牧場が「宮内省外山御料牧場」になった時点で、薮川外山地区だけが日本政府・内閣から独立した組織になり外山に関する一切の情報・牧場関連施設・開拓移民である住人・住居・学校等は宮内省主馬寮の管轄となります。これは、下総・新冠も同様です。
その為、御料牧場敷地内に関係者以外の一般人は立ち入り禁止。皇室に仕える形になった地元住人には守秘義務が課せられました。これが、「なぜ外山御料牧場の事を、私をはじめ地元住人が知らなのか?」の答えの一つです。
岩手県立図書館に資料が無いのはなぜか?
外山が下総・新冠と大きく違う点は、天皇陛下が現人神であられた戦前の大正11年に御料牧場が閉鎖された事です。明治24年~大正11年までの歴史・資料・記録は宮内省の管轄により日本政府は知る事が出来ない。その為、岩手県立図書館に外山の歴史がないという事のなぞが解けました。
さらに、外山御料牧場が岩手県外山種畜場に移管された後も、地元住人への守秘義務は継続されました。それを忠実に守ったが為「秘密主義」という差別用語が生まれた経緯に繋がります。そして、外山御料牧場時代に働いていたのは、二代前の祖父の時代であり子供たちには何一つ伝えることなくこの世を去った為、今の私たちが知らない要因の答えでもあります。
外山御料牧場の職員(育馬係御料牧場技手)三浦熊五郎氏のご子息である三浦先生が外山御料牧場時代の歴史を知っている最後の一人だった事になります。三浦先生が「外山開牧百年史」を編纂し残して下さらなければ、ここまでの謎は解けなかったと思います。
この後も私の思った疑問に、新島氏は悉く回答していきますが、私の心に新たな疑問が沸き上がります。「はて? 関係者以外の一般人は立ち入り禁止の場所に宮沢賢治はどの様にして入ったのだろうか?」
外山節がなぜ生まれたのか?
外山では御料牧場時代に草刈唄として「外山節」が生まれたのだが、下総・新冠でも草刈唄の様な唄はあるか?の問いに、やはり間髪入れず「ない!」。下総と新冠そして小岩井農場は平坦な牧草地だったので、早くから西洋の草刈り機を導入していたので草刈唄は生れなかった。標高が高く山間の高原地帯では起伏があり草刈り機は役に立たなかったのではとの事です。
なるほど、外山で平坦な牧草地は事務所のあった蛇塚くらいである事を思い浮かべました。それで、外山の短い秋の期間に効率よく草を刈るため人海戦術による草刈りが行われた。草刈りシーズンになると近隣の渋民・好摩・玉山・日の戸・上米内から草刈りを行う人夫を雇い入れ。現在のんびりした草刈り唄ではなく、炭坑節や田植え唄の様に節を合わせ一斉に草を刈る為に生まれたるのが外山節のようです。(中村調べ)外山節の草刈り唄は独特の地形が関係し生まれた唄になります。
近隣から集めた人夫にもどうやら守秘義務が課せられた様で、外山に草刈りに行ったと公言する人は少なく代わりに外山節だけが歌われ広まったと考えられます。
2007年(平成19年)6月 池上先生の本に巡り合い9年目。外山の散らばっていた歴史のジグソーパズルを集めはめ込み歴史の全貌が表に出たことで、依頼主である玉山村村長 工藤久徳氏に最終報告。ですが、2006年(平成18年)1月 玉山村は盛岡市に編入合併で、窓口が盛岡市に変わった事を告げられます。