歴史探索の経緯(続き7)

新島新吾

新島新吾氏宅訪問 1

平成15年(2003) 6月1日 午後1時30分

前もって三里塚記念館より紹介された新島氏に連絡を取りご自宅にお伺いする事になり、池上先生の本と三浦先生が編纂した「外山開牧百年史」と百年史のコピーを持参しお邪魔しました。岩手の外山御料牧場関係者(一応)からの訪問者は本当に初めてだったらしく、珍客来訪に敬意を払ってくださいました。

新島氏のご両親は下総御料牧場で働いていたそうで、幼い頃から御料牧場が遊び場だったそうです。小学校の教員を務めあげ、定年退職後は成田市教育委員会三里塚記念館館長をし、昭和44年の下総御料牧場閉場に伴い御料牧場(下総・新冠・外山)の場長 獣医学博士新山莊輔氏の偉業と功績を後世に伝える為、長年にわたり研究をしてこられた方でした。

改めて新山氏にこれまでの経緯から外山の歴史が無い事を説明し「外山開牧百年史」を手渡しました。冒頭の写真のページを開き第一声が「ほお~っ。主馬頭 藤波言忠子爵の書が残っているのか。」と感心した様でした。

藤波 言忠
主馬頭 藤波言忠子爵の書

「はあ~、私も百年史以外で見たことが無いので実物はどこにあるのか…。」藤波言忠子爵の事は百年史で出来た名前くらいしか知る由もなく、後に物凄い人物であることを知り驚愕しました。(この書の出処は外山御料牧場ご用達商店 吉与商店の吉田氏が所有しており3年後にお目にかかる事ができましたが、現在は不明です。)

そして、3ページの外山御料牧場の事務所の写真を見ながら、これまた「ほお~っ、コンパクトだが下総御料牧場の事務所と造りが一緒だな。」と私に顔を向けました。

私がはてな?の顔をしていると、下総御料牧場事務所の写真を取り出し左右六つある窓の四つの窓を手で覆いました。ビフォーアフターではありませんが、「何という事でしょう。造りが瓜二つ。」驚いていると、新冠も同じ様な外観と窓の造りなので、もしかしたらば設計者が同じ可能があるとの事でした。後に下総・新冠・外山の事務所が建てられたのもほぼ同時期である事が分かりましたが、設計者は誰なのかいまだ不明です。

山の山奥の外山に白亜の洋館が立っていた大正時代。宮沢賢治が見ていた建物になります。

新島氏は目次のページに目を通し、一条牧夫翁と新山莊輔氏の写真を確認し。「これは、大変貴重な資料だ」と微笑みながら感心していました。そして、一条牧夫と新山莊輔の駒場農学校一回生時代の記述を見つけ「これは、面白い。」と嬉しそうでした。なんでも研究で集めた資料には、学生時代の成績表とかはあるが当時の出来事の様子は初めてとの事でした。

小岩井農場には何度か行った事はあるが、外山御料牧場は年表や資料等で知っていただけで実際の場所が何処なのか不明だったとの事で用意していた岩手県地図を私に前に広げました。

「小岩井農場、盛岡市、外山」と順番に指をさします。「盛岡市から同じくらいの距離にあるのか。」「距離は市内からどちらとも約28㎞前後ですが、標高が違いますので歩くとしたらチョットした登山になるし、外山から小岩井までの移動は当時の道路事情からいって、馬で移動したとしても半日以上はかかったと思われます。」

そして、お話は御料牧場の確信に迫っていきます。記念館でお聞きした以上の御料牧場が出来るまでの日本の牧場の歴史。西洋諸国の列強による植民地化を防ぐ為、新政府は短期間にすさまじい社会変革の断行を押し進めできるだけ早く近代化し、富国強兵を目指します。高い賃金でお雇い外国人を雇い、最先端西洋技術「土木・建築・畜産・農業・林業・獣医学・農学等々」を導入。国の威信にかけた一大事業だった事を説明してくれました。

最先端西洋技術を吸収するだけでなく、藩制時代の日本人から近代日本人への上手く言えませんが「日本人の近代化改造計画」とでもいいましょうか。日本人の改革も同時に進められました。西洋人並みの体力と体格を得るため、日本の食文化の見直し肉食を取り入れる事が必要。富国強兵の具体的な政策、学制の小学校教育と兵制の徴兵令につながります。日本の近代化に牧場は、西洋文化の衣・食・住を知る上重要な役割があり不可欠だった事を教えていただきました。

本当に、私は歴史について何も知らない事を痛感しました。

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