足澤 勉(種畜場 第4代場長)

第4代種畜場場長 足澤勉氏

足澤 勉 略歴

明治、大正、昭和の三代にわたり、本県畜産行政の実際を担当、畜産岩手の黄金時代を築き上げ、温厚着実なその人格と共に各方面にその功績をたたえられていた。退官後は滝沢村大平に農場を開いて悠々自適の生活を送るとともに盛岡畜産農協常任顧問、財団法人畜産会館事務局長等をひき受け本県畜産行政の運行については常に良き相談相手となって後進を誘導した。

明治20年(1887)3月20日 旧南部藩士、良知翁の長男として盛岡市大沢川原新地の旧士族屋敷にて誕生
明治26年(1893)仁王小学校入学
明治30年(1897)下ノ橋高等小学校入学
明治34年(1901)盛岡中学校入学
明治39年(1906)盛岡中学校卒業
明治40年(1907)岡高等農林学校卒業 岩手県技手拝命
大正03年(1914)勧業課勤務(獣疫検査事務・畜産奨励事務を兼務)
大正05年(1916)岩手県種畜場技手拝命
大正12年(1923)産業技師高等官七等拝命
大正14年(1925)岩手県種畜場長拝命(外山本場)
昭和07年(1932)高等官四等拝命
昭和09年(1934)模範場長拝命
昭和12年(1937)高等官三等拝命
昭和13年(1937)叙勲、勲五等瑞宝章
昭和15年(1940)岩手県種畜場長退官 岩手県畜産課軍馬資源事務拝命
昭和19年(1944)岩手県畜産課退官
昭和29年(1954)11月23日 逝去

高等小学校時代

十一歳の時下ノ橋高等小学校へ入学した。この学校へは、市内の小学校(城南、仙北町、仁王)の卒業生と、郡部の小学校卒業生が集まった。この頃の郡部には高等小学校が少なく、中学校へ入学しようとするものは、わざわざ盛岡へ出て来てここに入学した。石川啄木などもその一人であった。

私の今の家の南に戦災で焼けた五軒長屋があり、そこに海沼慶治という、私より二つ年上の幼な友達がいた。そして啄木は、その海沼君のお婆さんの弟である渋民村のお寺の住職の息子であった。こうした関係で、啄木は海沼君の家に下宿して、下ノ橋の高等小学校へ通っていた。

よく私達とも遊んだが、彼は運動や勉強というより机に向っていろいろな本や雑誌を見ている方が多かった。その頃の雑誌は、小国民、少年世界の二種よりなかった。私も母に願って、毎月発行の少年世界を購読することができたがその時の嬉しさは、今でも忘れられない。一冊の定価が金六銭であった。

私は藤村先生の受け持ちで、先生は元気な若い先生であった。私達が卒業してから先生は台湾に行かれたが、晩年にはまた帰盛せられて、岩手女学校の前身校で教鞭を執られたこともあったが、惜しいことに二年前に他界せられた。私の祖母は私の一年生の夏、腎臓病で死んだが、私はこの時初めて死の悲しみというものを味わった。

高農時代

一年の努力は空しからず、二十名募集に対して百三十名の志願者があったが、幸に二番の成績で、入学することができた。入学式も無事に終えたが、家計が次第に不如意になって来て、そのことが苦の種子であった。葛西の叔父も同情してくれ、「三ヵ年の学費は出してやるから、月々清道(田鎖清士君の父で、葛西家の世話役をしておった)のところから持って行け。」とのありがたいお言葉であって私も安心した。洋服代、修学旅行費等、臨時の支出以外に、毎月三円宛の筆・墨・紙代を借りることになった。

生活の方も、仲々容易のことでなかったので、姉は、近勘や、榊呉服店の仕立物を引き受けて、賃仕事に余念な妹は小学校の代用教員として、紫波郡不動村、彦部村、飯岡村に次を追うて勤務した。父は好きな川魚や小鳥を採って酒代としていた。私も学校の余暇には、父と共に川猟に出かけて手助けをし、また時には弟を相手に川猟をやって、生活の一助ともした。随分苦しい生活であったが、三ヶ年だけはこの苦境を切りぬけねばならぬと、明るい希望に満ちて努力を続けた。

父の酒を嗜む程度は、益々高じた。けれども後妻を迎え永く苦難を子供達に残すよりは、むしろこの方がましであるとも考えた。斯様な境遇になると、ありし日の母を偲びせめて母がもう十年の寿命を保ち得てくれたならば、少しは安心して他界せらるることも出来たろうに、そして私達もどんなに助かったものかと愚痴をいうことも度々あった。

二十名の同級生は、全国より集まってきた。中には兵役を終えて来た者もあり、私はむしろ若年の方であった。盛田、梅村両君と私だけは自宅通学で、あとは全部寄宿舎に収容せられたが、この両君もすでに今は他界された。校長は名高い玉利喜造博士で、後年、郷里鹿児島高農初代校長に就任せられ、先年他界せられた。

玉利校長は我が国農学の大斗で、厳格な教育家でそして禁酒禁煙主義であった。一週に一回は各科の学生を講堂に集め、倫理の講義をせられたが、その処世訓としての講義中、特に今なお記憶していることは、次の事である。「人間一度この世に出るや、先ず空気の圧迫を受けて、孤々の声を挙げ苦界苦界となく。世の中は決して面白い楽な所ではない。全く苦難の娑婆である。先ず人はこのことを覚悟せねばならぬ。

人生は苦難の連続であると考えることは、悲観的な観察であるように、思うであろうけれども、この観念は却ってその人を楽観的な人間に導くものである」といわれた。また「一難去って一難来ることは、世の常である。唯、その苦難の中には、極めて下等な苦と上等な苦とがある。明日の糧にも困る苦は、最下等の部類で、生活あるの苦がなくなれば、誰でも自分の父母や兄弟のことを思い、それから親戚のこと、更に他人のことを、なお進んでは郷党のこと、その県のこと、国のこと等に尽くさねばならぬ様になり、漸次に上等な苦に移り行くことになり、苦難の絶えることがないのが常道である。

されば人はつぎつぎに来る苦難を覚悟して、これを乗り越え、自ら進んでこの苦難に打ち当たって行く勇気を持つようにならねばならぬ。かくて、初めて元気に満ちた楽観的な人間に、なり得るのであって、この苦難を早くのけて、楽をしようなどと考えるならば、その人こそ悲観的な生活をせねばならぬことになる。諸君はよろしく上等な苦をする人間になって、活動をしてくれ」といわれたのであった。

二代佐藤校長は、学生を紳士として取り扱う、という方針であった。「酒の如きも飲んでよい、唯、酒はどんなものであるかを、よく考えなければならぬ。一升飲める人は一升飲んでよい、一合飲める人は一合飲め。ただ、諸君は己に高等教育を受けている紳士である。高農学生の体面を汚すようなことはあってはならぬ」という主義の人であった。

獣医学部には、黒瀬、可児、田村、小野、溝口の各教授と、小西、笠原の助教授がおられ、各専門の学課を講義せられた。二年の時は、宮城県鍛冶屋沢軍馬補充部に、修学旅行を兼ねて実習に出かけ、三年には北海道及び東京方面の修学旅行をやった。同期生の中には、大学へ行けばよかったとか、別の専門に入ればよかったとか、色々なことをいうものもあった。しかし、私は父も年老いているし、兄弟があり、かれこれをいう暇もない。責任の重い身分であるし、早く卒業して、先ず生活苦からのがれるのが先決問題であると考えた。

学課は中学時代より難しいとは思わなかったし、勉強もあまりやる方ではなかったが、実習の方は比較的熱心にやったと思う。四十三年の三月、無事に卒業することが出来た。それまで一ヶ年弟が高等小学校を卒業してから新聞配達をして、手助けをしてくれたか今度は私が弟を農学校に入学せしめることにした。私は卒業後、学校の助手を命ぜられて毎日学校に通勤したが、六月に至り、県庁の警察部衛生課に勤務することになって、ここに官界入りをすることとなった。

資料提供:『足澤家の記録』著:足澤 勉