旧陸軍省軍馬補充部六原支部
明治31年(1898)、現在の金ケ崎町六原地区に旧陸軍省軍馬補充部六原支部(現在の岩手県立農業大学校)が設置されました。当時の相去村村長、桑島重三郎氏の尽力によるもので六原、西根、二ッ森に厩舎を構え、多い時には約1,000頭の軍馬を育成していました。種山高原は夏季放牧の放牧地として利用されました。
軍馬補充部は軍馬の育成や調教を主とした軍部です。人を乗せる乗用馬、荷物を引く輓用馬、荷物を背負う駄用馬の3つの区分に分けられていました。大正14年(1925)10月、軍備縮小に伴い軍馬補充部六原支部は廃止されました。現在は、国登録有形文化財『軍馬の郷六原資料館』(2017年登録)として当時の官舎が保存されています。
宮沢賢治と陸軍省軍馬補充部六原支部
大正13年(1924)花巻農学校で教鞭をとっていた宮沢賢治は生徒たちと軍馬補充部六原支部を訪れました。後に賢治は、その時の体験を基に『軍馬補充部主事』(口語詩)と『玉蜀黍を播きやめ環にならべ』(文語詩)という2つの詩を遺しています。
軍馬補充部主事(口語詩稿)
うらうらと降ってくる陽だ
うこんざくらも大きくなって
まさに老幹とも云ひつべし
花がときどき眠ったりさめたりするやうなのは
自分の馬の風のためか
あるひはうすい雲かげや、
かげらうなぞのためだらう
よう調教に加はって
震天がもう走って居るな
膝がまだ癒り切るまい
列から出すといゝんだが
いやこゝまで来るとせいせいする
ひばりがないて
はたけが青くかすんで居る
その向ふには経塚岳だ
山かならずしも青岱ならず
残雪あながちに白からずだ
五番の圃地を目的に
青塗りの播種車が
から松をのろのろ縫って行くのは
まづ本部のタンクだな
いやあ、牧地となると
聯隊に居るときとはちがって
じつにかんかんたるものだ
しかしながら
このやうな浩然の大気によって
何人もだらけぬことが肝要だ
ところが何だ、あのさまは
みんなぴたっと座り居る
このまっぴるま
しかもはたけのまんなかで
さんさ踊りをやり居って
誰か命令したやうに
ぴたりとみんな座り居った
おれのかたちを見たんだな
雇ひ農婦どもの白い笠がきのこのやうだ
まだじっとしてかゞんでゐるのは
まるで野原の生蕃だ
いったい何といふ秩序だ
あすこは二十五番の圃地だ
けさ高日技手が玉蜀黍を播くとか云って
四班を率ひて行き居ったのに
このまっぴるま何ごとだ
しかもあの若ものは乗馬づぼんに
ソフトカラなどつけ居って
なかなかづ太いところがある
一番行ってどなるとするか、
大人気ないな
ははあ開所の祭りが近い
今年もやっぱり去年のやうに
各班みんな競争で
なにか踊りをやるんぢゃな
もちろん拙者の意も迎へ
衆もたのしむつもりぢゃらう
それならむろん文句はない
馬のかしらを立て直しぢゃ
粋な親分肌を見せるのは
かう云ふときにかぎるんぢゃ
さっきのうこんざくらをつんで
家内に手紙を書くとしやう
玉蜀黍を播きやめ環にならべ(文語詩稿 五十篇)
「玉蜀黍を播きやめ環にならべ、
さんさ踊りをさらひせん。」
野は野のかぎりめくるめく、
まひるをひとらうちをどる、
さあれひんがし一つらの、
所長中佐は胸たかく、
「いそぎひれふせ、ひざまづけ、
種子やまくらんいこふらん、
開所の祭近ければ、
技手農婦らに令しけり。
青きかすみのなかにして、
袖をかざしてうちをどる。
うこんざくらをせなにして、
野面はるかにのぞみゐる。
みじろがざれ。」と技手云へば、
ひとらかすみにうごくともなし。