はじめに
藪川地域は薮川町村、薮川岩洞、薮川外山の三つの地区に分けられています。「南部牛追いの道」旧小本街道で栄えた町村・岩洞と「牧場開拓 馬の道」新小本街道 (バイパス)で栄えた外山地区に大きく区分されます。
「牧場開拓 馬の道」新小本街道で栄えた外山地区。明治維新後、外山牧場開拓の為に新しく作られた道で、馬・汽車・自動車と時代が移り変わるたびに主要道路が作られました。一つは盛岡から上がってくる小本街道から牧場に入ていく道。一つは浅岸のほうから上がってくる道。一つは岩手川口のほうから入ってくる道。岩泉方面から入ってくる道と東西南北隣接する集落から入ってこられるような道が存在しています。
岩洞・町村地区と外山地区では、歴史も住人も文化も気候風土も風景も全く違う、変わった場所になります。
「南部牛追いの道」旧小本街道(塩の道)で栄えた町村と岩洞地区。藩制時代から旧小本街道は、下閉伊郡小本で水揚げした海産物の塩漬けや塩を盛岡へ運び、帰りに米を持って帰っていた。塩を運ぶ道、「塩の道」という別名が付けられたのはその為です。また、塩を運ぶのに牛を使っており、「南部牛追いの道」とも呼ばれている。南部牛追いの道は、そのまま盛岡、雫石などを通過し、秋田の沿岸まで抜けています。
外山牧場の立地場所
外山は開拓移民の歴史
薮川(外山を除く)
町 村・岩洞 | ・縄文時代から人類が移住 ・藩政時代には塩の道小本街道の宿場町 ・町村は平家の落ち武者伝説 ・住吉神社奉納藪川神楽 ・金山採掘 ・岩洞一帯が良質な山菜の宝庫で盛岡城の料理人が住みついた話がある |
外山
大ノ平・葉 水 | 第一次開拓 外山牧場+第二次開拓 御料牧場 明治4年 農商務省陸産局養馬係出張所を外山に設置 明治6年 島県令は外山が牧場に最適と政府に申請 明治9年 県営外山牧場開牧 明治12年 外山牧場内に獣医学舎を設立 |
蛇 塚 | 第二次開拓 明治24年 御料牧場開牧 第三次開拓 昭和23年 戦後食糧開拓事業 |
外山の地が西洋牧場に選ばれた訳
- 豊富な清流と豊富牧草に北上山地の石灰岩から生じるカルシウムが多く含まれている事。
- 南部の民が、馬の育成に精通していた事。
- 標高が高い事。
- そして、本州で一番寒い事(繁殖期に暑いと良くなかったとの事、北海道新冠牧場と同じ気候)。
外山牧場の軌跡
年 数 | 事 象 | 備 考 |
---|---|---|
明治9年 | 島惟精が外山に牧場を開設 | 外山は牧畜に最適 西洋式の農業方式を取り入れる 2度目の入植 |
明治12年 | 獣医学舎 設置 | 日本で2番目 獣医が家畜の管理に必要 |
明治13年 | 一条九平、外山牧場長となる 獣医学舎の閉鎖、盛岡市内丸へ移動 | 全国で初めての外国種雄馬輸入 外国種を岩手に直接輸入 |
明治14年 | 岩手県から産馬会社へ移管 | 地域間の連携に難あって瓦解 |
明治24年 | 外山牧場 処分 | 宮内庁が敷地を買い取る |
外山地区に牧場が出来たのは明治9年、当時の岩手県令だった島惟精が外山を訪れた際、ここは牧畜に最適ではないかということで県策として始められた。その背景には、明治政府が畜産を奨励し、資金を貸下などの厚配を敷いていたということがあった。
開始当初の敷地面積は3215ha、田畑は67haであった。また、現国道455線の県庁から藪川駅までの10里余りに新道を通し、馬車が通れるようにした。当時、西洋式の農業方式を取り入れ始めていたこともあり、使用農具は洋式農具で、イギリス人のマッキノンを雇い入れた。
明治12年、中央にあった駒場農学校(今の東京大学農学部)に次いで2番目となる獣医学の学校が設置されたのも外山牧場である。当時、外山牧場には専門の獣医がいなかった。その為、馬が病気にかかった場合盛岡から医者を呼び治療してもらっていたが、馬の管理衛生上、獣医の育成を行うことが適当と考えたのが始まりである。この獣医学学校、獣医学舎は一年三カ月で閉鎖され、盛岡市内丸に移動になる。
明治13年、一条九平(その後名前を変えて一条牧夫となる)が、札幌から東京への出張の途中盛岡で島惟精に引き抜かれ、外山牧場の場長事務取扱となる。一条場長は、全国初めての洋血注入による改良増殖に着手する、オーストリア公使シーボルトに頼み、明治16年から22年の間に馬のアラブ種19頭を輸入し岩手県にそのまま導入するなどの功績を残した。これらの業績が直接関わったかどうかはともかくとして、一条九平は全国で初めての外国種雄馬輸入を行った人物でとして知られ、当時の馬産界での功労者であったことは言うまでもない。
安政5年(1858) | 岩手郡東中野村(現:盛岡市東中野)に生まれる。 |
明治5年(1872年) | 15歳で上京。後に駒場農学校で畜産学を学んだ。その後駒場病畜舎や下総種畜場で馬の育成にあたる。 |
明治14年(1881) | 帰郷、外山牧場顧問(初代牧場長)となり、馬をはじめとする家畜の改良と牧場の整備に尽力した。畜産の発展に生涯を捧げようと志して牧夫と改名。 |
明治31年(1898) | 岩手種馬厩を設立。岩手は古くから馬の産地だったが、時代に即した馬の改良の必要性を感じ、フランスからアングロノルマン種を、イギリスからハクニー種を輸入。南部馬と交配させて改良馬を生み出す。『岩手産馬改良の父』と 言われている。 |
明治34年(1901) | 岩手種馬厩が岩手県種畜場と改称された際に場長となり、欧州の畜産状況を視察するなど、大正3年(1914)に職を辞するまで一貫して産馬改良に努めた。岩手が馬産地として広く認められる様になったのは、牧夫の努力によるものと言っても過言ではない。 |
明治14年、外山牧場の所管は岩手県から産馬会社へと移管する。背景としては明治政府が設置していた民部省養馬掛出張所がせりに対して運営、搾取していたせり駒官収金がある。せり駒官収金というのは簡単に言うと、繁殖に必要な雌馬が生まれても雄馬と一緒にせりにかけ、売れない場合は買い上げてもくれず、せりで得た金の半分以上を搾取していくシステムで、雌馬を売る必要があるため生産基礎が枯渇してしまうというものであった。
その為、岩手県は県内の馬生産組合を集め産馬会社を設立、経営を移管した。しかし、産馬会社は岩手県各地の馬生産組合が集まっているため、相互の協調がうまくいかず、岩手県は色々な施策を講じるものの結局瓦解した。
外山牧場の処分に当たっては、宮内省か陸軍省に売り、産馬改良の模範としてもらいたいという知事宛願書を提出、宮内省主馬頭にあたる子爵藤波言忠が外山に至り従受を完了。外山牧場は解消され、以後宮内庁が所管する牧場に生まれ変わる。