明治4年 日本から欧米諸国に派遣した大使節団
戊辰戦争が終結し内乱が収まり。明治4年7月明治政府が中央集権化のために廃藩置県(藩を廃止し県を置く)の政治変革が行われ、新たな国として動き出します。
そして、明治4年(1871)12月23日 アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に向け、岩倉使節団は横浜から最初の歴訪国である米国に向けて出発しました。
使節団のメンバーは、全権大使/岩倉具視 副使官/木戸孝允(桂小五郎)・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳をはじめ、使節46名、随員18名、留学生43名の107人で構成されていました。
使節団の三つの使命
- 条約締結国を歴訪した際、各国の元首に天皇の国書を奉呈し、聘問の礼をとること。
- 条約改正協議期限間近のため、その延期も含めて改正打診の予備交渉を行うこと。
- 欧米諸国の制度・産業・文化の調査・研究を行うこと。
失敗したこと
最重要課題だったのが、②の条約改正予備交渉でしたが、日本の代表である天皇陛下の委任状がなければ交渉ができない。伊藤・大久保は全権委任状を取得するためいったん帰国。戻った時は、交渉できる状態ではありませんでした。結果②は失敗、もっぱら①と③に専心をしました。
達成できたこと
結果、日本と西洋文明の差を改めて認識。幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す目的と目標が出来、政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行する意味では大きな役割を果たしました。
大久保利通が驚愕
最初の訪問国アメリカのサンフランシスコで、南部馬の倍の体格をした馬が整備された石畳の道路を馬車が引いていた事に驚愕。藩制時代の日本の在来種はポニー位の大きさが当たり前。
しかも主要用途は人が乗る(騎乗)か、荷物を背中に乗せる(駄載)が常識で、道路が整備されているところは限られおり馬車という認識が全くなかった。日本と西洋の文明の差を思い知らされたと思います。西洋諸国が日本に攻め入った場合、どの様に対処すればいいのか…。