日本の馬政・牧畜と獣医・農学を
けん引した藤波言忠と新山莊輔
藤波言忠侍従との出会いと欧米視察
『下総御料牧場 第五代場長
新山莊輔氏を語る』著:新島新吾
明治十八年(一八八五)、荘輔は農商務省農務局畜産課に勤務していた。その在勤中、近くに居た四、五人の人が「今度藤波侍従は牧畜事業視察のため欧米に出張されるそうな」と言うのを耳にした。
荘輔にとっては耳よりな話、藤波侍従は全く未知の方だが、何とか随伴したいと考えたのである。
やがて荘輔は養父の友人であった当時の侍従毛利左門氏の紹介で藤波氏の門を叩いた。藤波侍従は多忙な人でようやく三度目に会うことができた。荘輔は牧畜視察の随行を懇請した。
しかし、「折角ではあるが、今度は伊藤博文宮内大臣より一人で欧米に行くように命ぜられたので、遺憾ながら同行させる訳には行かぬ」とキッパリ断られたのである。
やむなく断念したが、何としても随行したい念には変わらなかった。再度侍従をたずねて、今度は「馬の護送人として連れて行って下さい」と頼み込んだ。「せめて米国の入り口まででも…西洋の牧畜事業を学びたいのです」と熱誠をこめて懇願した。この熱意に、侍従は一考してみようとの事であった。
藤波侍従はこの事を徳大寺侍従長に話した。後日、徳大寺侍従長から荘輔の元に、宮内省に出頭するようにとの手紙が届いた。出頭した荘輔には侍従長が直接会った。そして、「如何なる目的で獣医学を修業したいのか。如何なる考えで欧米に行きたいのか」と問い正した。荘輔はありのままの決意を述べた。いわばメンタルテストを受けたのである。その後、荘輔の考えている事を書面にして出すようにとの連絡があったので、早速用意して徳大寺侍従長に提出した。
後日、宮内省へ出頭すると、侍従長から「君は誠に幸福な男だ。明治天皇陛下にお前の事を申し上げたところ、それ程熱心ならば藤波に附けてやるがよろしいとの御諚であった。しかし君は一生宮内省に勤める気なのかどうか」と聞かれたが、荘輔は言葉も出なかった。ただ感涙にむせび、三度四度と御辞儀をした。それから気を落ちつけ、「ありがとうございます。必ずきっと一生涯宮内省に熱誠こめて御奉公申し上げる事を誓います。」と答えたという。
その言葉どおり、荘輔は明治天皇のもとで下総御料牧場長を、大正天皇のもとでは宮中顧問官を勤めるなど、事実上一生涯宮内省に仕えている。荘輔本人は「只々有難く恐懼してゐる次第である」と記されている。(『明治大正馬政功労十一氏事蹟」より)
スタイン博士の憲法学講義
荘輔が日本国憲法史に名を残していることを、成田市内において紹介したのは、高柳正平氏(南羽鳥)の「新山場長物語」ではないかと思う。誰もが「エッ!」と驚く事実であった。「新山場長物語」は、昭和四十五年(一九七〇)「広報なりた」の五月一日号から九月十五日号まで九回連載されている。
この項目についての内容は、荘輔自身が語ったことを収載しているので、以下それを元にして記述していくことにしたい。
藤波侍従に随行した荘輔は米国にて馬五頭を購入、各州の牧場を視察した後、英国に渡航、さらに英国からドイツへわたり、ドイツから藤波侍従の招請を受け緊張の面持ちでウィーンを訪れた。ヨーロッパの牧場視察はそっち除けであった。藤波侍従のウィーンでの目的は、大学者スタイン博士から憲法学の講義を受けることであった。
あらかじめ伊藤博文宮内大臣からスタイン博士へ、藤波侍従を派遣する旨伝えてあったようである。博士は侍従のため、憲法学の個人教授を毎日熱心に親切におこなった。講義は九カ月間続けられた。午前九時から午後四時まで、昼食一時間休むだけのハードさであったという。
スタイン博士はドイツ人だが、講義は英語であった。荘輔は通訳の役割を担った。訳をする際には、講義の内容を必ず一遍スタイン博士の確認をとり、「よし」と言われてから、侍従に日本語で伝えた。「会計検査院」「枢密院」などの訳にはほとほと困ったとのことである。
宿舎に帰ってから、その日の講義を日本語に翻訳したものを清書する。その作業に毎夜十一時十二時までかかったそうで、全部書き上げたものを積み上げてみたら、西洋紙五尺(約一五〇センチ)位の高さになったという。後日漏れ伝わった話では、侍従が明治天皇にスタイン博士の憲法学をお伝えするまでの整理に、前後約二年も要したという。大日本帝国憲法の発布は明治二十二年(一八八九)で侍従の訪欧目的の一つはその調査であった。
この時のことについて、荘輔は「思いも寄らず藤波子爵に随行して恐れ多い此の光栄をになったことを有難くおもっております。」と述べており、荘輔の長男春雄氏の記録によると、荘輔の妻英子は英和女学院を出ており、英語に関しては色々と夫の手伝いをしたとのことである。時代を考えるとその先見性に驚かされる。
政府は憲法制定のため伊藤博文をヨーロッパに派遣。伊藤は各国の憲法を比較検討、君主権が強いプロシア(ドイツ)の憲法を模範にすることを決め井上毅らに起草を命じた。1885年、憲法および国会に先立って内閣制度を制定。伊藤を初代内閣総理大臣とする内閣が組織され、1889年 維新後、近代的な憲法である大日本帝国憲法が発布された。
憲法は君主である天皇から国民に対して与えられるという欽定憲法の形をとり立憲君主制を採用。主権は天皇にあったが、政治的行為に際しては内閣の輔弼を要することとされていた為、純粋に法的には政治責任は内閣に帰する。裏を返せば内閣は天皇の名と権威を利用して政策を実施できるということでもあり、これが後に君側の奸を征伐するという昭和のクーデター事件を引き起こす一因ともなっている。
陸海軍の統帥権は天皇に属した。国民は臣民とされ、法律の範囲内という条件の下であるが、ある程度の自由と人権が認められた。人権が極端に制限されるようになるのは昭和に入ってからの軍部の台頭によるものである。
主權 | 天皇主權 |
戦争 | 天皇に統帥権、臣民(天皇あっての国民)に兵役義務 |
国民の権利 | 臣民としての権利、法律の範囲での保障、自由権的基本權 |
国会 | 天皇の協賛機関、二院制、衆議院のみ選挙 |
內閣 | 天皇の輔弼機関、国務大臣は天皇に責任を負う |
裁判所 | 天皇の名において行う、違憲立法審査権なし、特別裁判所の設置 |
憲法改正 | 天皇の発議(勅令)、帝国議会の議決 |