⑧ 外山牧場と戦争(戦火の馬)

外山牧場と戦争(戦火の馬)

防衛から攻防へ

昭和12年(1937) から始まった日中戦争は、昭和15~16年(1941~42 ) の東南アジアへの侵攻、さらに太平洋戦争(第2次世界大戦) へと拡大し、昭和20年(1945)の敗戦まで続き日中戦争や太平洋戦争(大東亜戦争)で、約100万頭の馬が各地に送られたといわれています。

佐々木慶一郎氏(元女川高校校長 77歳)

18歳から50年以上かけて、太平洋戦争を中心とした資料を約4千点以上個人で集め収集。石巻市北村の自宅に私設の平和資料館を開設し「物言わぬ昭和の証言者」たる戦争資料や遺品を無料で公開しています。毎年、終戦の日前後の時期には、戦争テーマを決め特別展を開いています。

佐々木慶一郎:平和資料館館長、石巻市統計協会会長

佐々木慶一郎氏宅(平和資料館)を訪問

軍馬に関する資料とお話を伺う
(令和6年10月18日(金)10:15分)

当日は遺族会の団体の方が約20名お見えになっており見学終了後に軍馬についてお話を伺うことが出来ました。わざわざ集めた収蔵品の中から、軍馬に関係の資料を用意して頂いておりました。常設展示室では口輪や鞍、あぶみといった馬具や乗馬用長靴、さらには騎兵隊や陸軍獣医の大礼服、軍馬に関する展示物の説明もして頂きました。

幼いころ父親の大切にしている勲章で遊んでいたら父にこっぴどく怒られてしまい、それがとてもトラウマだったそうです。教師になり研修で各地に赴く事があり、ある地方の古道具屋に入った時、父親が大切にしていた同じ様な勲章を見つけたら二束三文の値段で売られている事に衝撃を受けたそうです。これは、次世代に残さなければならない。

佐々木慶一郎氏からの説明

『物を言わぬ昭和の証言者』次世代に聞かせる義務ある!

もの言わぬ活兵器「軍馬」

支那事変から終戦まで、全国から50万頭の馬が戦地へ行ったわけですから、軍隊には常に相当な数の馬がいたんです。あんまり活動は知られていないでしょうけれども、戦場では大いに活躍しました。

兵器といえば、銃や大砲などを思い浮かべる人が多いかと思いますが、活兵器・生きた兵器とも呼ばれた動物たちの中でも重宝されたのが、やはり軍馬でした。

その役割は、兵士を乗せて戦う「乗馬(じょうば)」、大きな荷物を背につけ運ぶ「駄馬(だば)」、大砲など物資を積んだ車を引き運ぶ「輓馬(ばんば)」の3つでした。馬は道が無い所でも、急な斜面でも、トラックが行けない様なぬかるみでも、川の中でも、荷物を背にして歩くことができた。これは大きな生きている兵器だと思います。

軍馬が、特に大きな役割を果たしたのが、当時イギリス領だったインドで、旧日本軍とイギリス軍が戦ったインパール作戦です。戦場はジャングルと2000m級の山々が連なる厳しい土地。旧日本軍の死者は3万人以上ともいわれる悲惨な戦いとなりました。

そうした戦いの中でも、軍馬は負傷した兵士や重い荷物を背負って悪路を進んだといいます。兵隊さんも馬と一緒に行動しているわけですから、兵隊さんにとっては、「もの言わない戦友」ですから愛馬が死ぬと戦友を亡くしたように悲しんだという風にいわれていますね。

また、太平洋戦争で旧日本軍とともに戦ったのは、軍馬だけではありません。馬のほかに犬、鳩といった動物も兵器として扱われました。弾丸の飛び交う最前線への弾薬の輸送には犬、情報をやり取りするための通信手段としては鳩も使われ、人知れず戦地に散っていきました。

人も馬も動物も戦場へ 
– 戦火で散った動物たち –

① 馬

【軍馬の役割】軍馬は戦時中、人や物資、弾薬、食料を輸送するために使用され、乗馬(じょうば)、駄馬(だば)、輓馬(だば)の三種類に分けられます。

乗馬(乗用馬)人を乗せる馬:1.将校乗馬 2. 騎兵乗馬
駄馬(駄用馬)荷物を背負う馬:1.山砲(さんぽう)駄馬【山砲は車両が使用できない山地などで使用される火砲で、分解して運ぶ馬】2.輜重(しちょう)駄馬【輜重は戦場に兵糧や弾薬、陣地設営道具などを運ぶ馬】
輓馬(輓用馬)荷物を引く馬: 1.砲兵(ほうへい)輓馬【多数の馬で砲を牽引する馬】2.輜重(しちょう)輓馬【馬一頭で曳く荷馬車で、弾薬・糧食・軍需品といった物資の輸送する馬】

戦闘に関わらない全ての任務を自動車や装甲車で行っていたアメリカ軍に対し、機械化が遅れた日本軍は物資輸送、情報伝達に軍馬を駆使し補っていました。戦地では列車や車が通れない道や、道が無い山間地ではより馬が重宝されました。

馬は臆病な動物なので、戦地でも活躍できるよう「軍馬」として調教する必要がありました。明治時代に陸軍がより高い能力を持つ軍馬を目標に、軍馬の育成や供給を目的とした軍馬補充部を設置。岩手県では胆沢郡金ケ崎町六原地区に「陸軍省軍馬補充部六原支部」が作られ、多い時には約1,000頭の馬がいたと言われています。

■ 六原資料館の場所をGoogle マップで見る

② 犬・鳥

【軍犬(ぐんけん)と軍鳩(ぐんきゅう)の役割】

軍犬(軍用犬)軍事目的で育成・訓練した犬で、最前線で弾丸の飛び交う中、夜間の警備や警戒、機雷の捜索、連絡、弾薬輸送・運搬などの用途に使われました。陸軍公認の軍犬はシェパード、ドーベルマンビンチェル、エアデルテリアの三種で、他にコリーや日本犬が補助的に使用されました。
軍鳩(軍用鳩)鳩の帰巣本能を利用し通信連絡のため伝書鳩を使用。無線が普及していない時代の重要な伝達手段で、鳩舎(鳩小屋)を拠点とする基本的な通信の他、夜間飛行できる夜鳩、二つの鳩舎を往復する往復鳩があり情報を司令部へ配達しる役割を果たした。

③ 他にも戦争で人間とともに戦った動物たち

ロバ、ラバ、牛・水牛、ラクダ、トナカイ、象。

日本人と共に戦った軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊碑が靖国神社に建立されています。

人の赤紙、馬の青紙

戦争が長期化するとともに戦場の軍馬も不足し、田畑を耕すのに欠かせなかった農家の働き手である農耕馬も、国に買い上げられたり「青紙」で徴発されたりして、多くの馬が戦地へ送られたと言います。人の「召集令状」はいわゆる赤紙ですが、馬にとっての召集令状は「馬匹徴発告知書」で青紙になります。農耕馬は荷物を載せて運ぶ「駄馬」や荷車を引く「輓馬」にされました。

太平洋戦争で戦死した石巻市和渕の庄子誠吾氏が、生前に家族へ宛てた軍事郵便があります。誠吾氏は志願兵で、大農家の7人兄弟の次男。兄も徴兵されており、はがきには「今度は農家として一番の頼みな馬までが徴発とか。何もかも国の御為です」と記し、母親を気遣っていますが、馬は農家を支える働き手。それを持っていかれると残された親や兄弟に負担が来る。郵便は検閲されるから国の御為とあるが、内心は異なるだろうと思われます。

日中戦争から太平洋戦争までに戦地に送られた馬は50万頭以上とも言われていて、兵隊は復員できても、馬はごくわずかな例を除いて帰ることはなかった。敵の攻撃を受けたり、飢えて死んだり、終戦後は置き去りされ二度と祖国へ帰ることはありませんでした。

そんな軍馬たちを弔うため、各地の集落の入り口には、軍馬神碑や馬頭観音といった石碑が建てられ、地域に残されていますが、その建てられた意味も分からなくなって、夏草が生い茂る中に、今その碑が倒れたりして、顧みられる事が無くなっていますが、そういう軍馬の歴史があったんだということを終戦の日には思い出していただけばいいのかなと思います

いま世界ではウクライナとロシアが、パレスチナとイスラエルが戦争をしていますが、決して戦争は良いことはない。展示物は『物を言わぬ昭和の証言者』ですから、私たちは次世代に聞かせる義務があり平和の大切さを理解していただく材料になればいいなと思っています。

企画展示は終了していますが、連絡(0225-73-4057)すれば随時、無料で公開しているそうです。

『奇跡の軍馬 勝山号』 – お勧め本 –

小玉克幸『奇跡の軍馬 勝山号』
小玉克幸『奇跡の軍馬 勝山号』

大陸戦線で何度も負傷を繰り返しながら戦地を駆け抜けた勝山号。日中戦争時代、その名前は子供から大人まで、数多くの人々の記憶に残り全国に響きわった。なぜ一頭の馬が、こうも国民の注目を集めたのか。歴戦の部隊長、一緒に戦った兵士、育てた家族たち……勝山号に携わった人々の姿とともにその航跡をたどる。

小玉克幸(こだま・かつゆき)
1982(昭和57)年生まれ。岩手大学教育学部卒。団体職員。趣味で戦史、郷土史の研究を続ける。専門は機甲、軍馬、郷土兵団。また、軍馬「勝山号」の馬主・伊藤新三郎曾孫(母方)で、幼少より勝山号の事績に興味を持ち研究を続ける。2007(平成19)年6月から地元の胆江日日新聞に連載した「故郷に生還~軍馬『勝山号』の軌跡~」により、翌年3月、岩手県競馬組合と岩手県知事より「馬事文化賞」を受賞。本書は、この連載に大幅加筆した書き下ろし作品である。

本ページの編集に関して、著者の児玉様より多くの資料を提供していただきました。

戦時態勢下における我が国の馬政 年表

明治24年(1891)「外山御料牧場」開牧
明治27年(1894)7月25日 日清戦争勃発
明治28年(1895)4月17日 日清戦争終結
10月 馬匹調査会は、馬産に関する各部門について検討。1馬匹改良の方針、2種馬牧場及び種馬所設置、3種馬の選定、4種馬の検査、5産馬組合、6産馬奨励
明治29年(1896)4月 種畜場及び種馬所管制が公布
5月 岩手種馬所(後の岩手種馬育成所)を岩手郡滝沢村に開設。
●陸軍省は軍馬を補充するために軍馬補充部を設置
明治31年(1898)◆県は (後の岩手県種畜場)を盛岡市内丸に開設
◆陸軍省は軍馬補充部六原支部を岩手県胆沢郡相去村六原に設置
明治32年(1899)蛇塚に事務所、種馬厩・牝馬厩等が落成。「外山」の事務所を閉鎖し「蛇塚」へ本部を移転。・蛇塚事務所と旧外山事務所間に電話を架設。【新山場長(下総)が小岩井農場長を兼務】
◆岩手獣医学校と岩手県農事講習所を合併し「県立農学校」改称。
明治34年(1901)盛岡市内丸の種馬厩を岩手種畜場と改称。外山御料牧場は育馬を務める方針により畜牛の改良増殖を廃止
◆水沢公園南側に円形馬場完成。
明治35年(1902)◆種馬厩は岩手郡滝沢村に移転。
◆3月27日盛岡高等農林学校設置
明治36年(1903)◆競馬会創設。盛岡新競馬場完成「黄金競馬場」の御命。8月陸軍大臣より農商務大臣に対し「平戦両時陸軍所要馬数の事」「軍馬資格の事」等、馬匹改良に関した14項目について要望
明治37年(1904)●2月8日 日露戦争勃発
4月7日 明治天皇より「馬匹改良のために一局を設けて速やかにその実効を挙ぐべし」との勅命
9月 臨時馬制調査委員会を設置
明治38年(1905)●9月5日 日露戦争終結
明治39年(1906)5月 馬政局官制が公布、設置。馬政30年計画立案実地
明治40年(1907)◆5月 岩手種馬所(後の種馬育成所)を岩手郡厨川村に開設。同時に岩手種馬育成所を岩手種馬所跡地に設置
明治42年(1909)4月、騎兵第三旅団が盛岡市に設置
10月26日ハルビン駅で、伊藤博文が暗殺
◆水沢公園南側競馬場を東宮殿下の「東」を頂き「東競馬場」と命名。
明治45年 (1912)●7月30日 明治天皇崩御。大正天皇即位
大正03年(1914)・7月 御料牧場は宮内大臣の管理に属し、主馬頭の統理となり、「下総 御料牧場外山分場」と改称。
●7月28日 第一次世界大戦勃発。
大正07年(1918)・蛇塚に事務所(白亜の洋館)を新設。
●9月29日 原敬内閣成立。
●11月11日 第1次世界大戦終結
大正09年(1920)●1月10日 国際連盟発足、日本も加盟国となる。
●3月15日 株価暴落、戦後恐慌始まる
大正10年(1921)●11月4日 原首相東京駅で暗殺され、内閣総辞職。
●11月12日 ワシントン会議開催(~大正11年2月6日)。
●11月25日 皇太子裕仁親王が摂政に就任
大正11年(1922)・馬籍法の公布。飼育される全ての馬は「馬籍」登録の義務化。
・11月 政府の行政整理により、「下総御料牧場外山支場」を廃止。
・12月 外山支場は岩手県に移管。「岩手県外山種畜場」として発足
大正12年(1923)・軍馬の改良と増殖のため「競馬法」を制定
大正13年(1923)・4月20日 岩手県外山種畜場にて種馬検査実地(検査区域・薮川村・玉山村・米内村)。
大正14年(1923)◆軍縮に伴い陸軍省は軍馬補充部六原支部を廃止
大正15年(1923)●12月25日 大正天皇崩御。昭和天皇が即位
昭和14年(1939)4月 軍馬資源保護法が公布。毎年の検査で軍用保護馬に指定された馬の所有者は、一定の管理や「鍛錬」への参加などを行ない、大日本帝国陸軍による徴発にそなえる義務を負うようになった。