開拓の想い出の記
故、主人中村新八の故郷であり、私の第二故郷『外山』。私が主人と結婚し、東京から岩手の外山に初めて訪れたのが、昭和三十六年九月上旬。外山では、そばや稗を収穫している頃でした。
自然に囲まれ秋の深まった外山は、残暑の続く夏の都会から参りました私にとりまして、とても寒く感じられました。舗装されて居ない道路には草が生え、水たまりが出来ており、とでも歩きにくかった事を今でも思い出されます。
佐藤正直様が組合の会長をしておられました藪川高原開拓組合の一員であった主人の都合に合わせ、東京での生活に一区切りを打ち、生まれたばかりの長男を抱き、主人が運転する車に揺られ、外山は蛇塚の北の又に引っ越して参りましたのは、翌三十八年六月の中頃でした。
初めての東北(外山)の「春」は、関東で過ごしてきた私にとって、味わう事が出来ない春でございました。山桜水仙、鈴蘭等、特に林檎の花はこの時、初めて見ました。涼しい「夏」。萌える様な紅葉に染まる「秋」。そして、口では言い表せない厳しい「冬」。全てが初めての体験でございました。
次男が生まれ、そして主人との突然の他界。親子三人、路頭に迷いながら、岩洞開拓組合会長の伊藤勇雄様が熱心に薦めておりましたブラジル開拓民に参加を致したかったのですが、残念ながら夫妻一緒でなければ行く事が出来ず、子供達が独り立ちするまで、外山にとどまり生きて行くことを決心しました。
野山に囲まれた外山の四季を何度も過ごし、開拓者の皆さんに励まされ支えて戴きました御陰で、今日までやってくる事が出来ました。皆様と共同で行いましたサイロ詰め、じゃがいも掘り、大根作り、炭焼き等。朝から晩まで、共に良く働いた事を、今でも思い出します。
あれから三十七年。私も六十五歳。昔ならもうこの世の人ではない歳となりました。中村家と外山の繋がりは随分前からで、戦後の開拓事業が始まる以前から外山御料牧場時代より先祖が外山に移り住み、祖宗夫妻から数えますと、私の子供で五代目となります。長年に渡り外山を愛し続けて参りました。
丁度、外山に居りました時に「外山開牧百周年」「外山小学校百年祭」と節目の時期に巡り会う事が出来、私をはじめ、子供達も良き故郷として日常生活の話題となっております。開拓事業も終焉を向かえた頃、PTA会長の工藤盛さんと藪川出張所の深沢勘所長さんのお口添えにより、学校給食の給食婦の仕事に着く事が出来ました。
御陰で学校給食婦の仕事柄、学校の行事に合わせ開拓者の皆さん、そして、そのお子さんと過ごす機会が多くなり、春は山菜わらび採り、夏は川を止めて水遊びに夏まつり、秋は運動会、キノコ採りに蒔割、冬はスキー等と、何事にも親と子が力を合わせ過ごす良き時代を一緒に過ごし、親子共々、充実した生活を送らせて戴く事が出来ました。誠にありがとうございました。
私は外山に十八年位しかいなかったのですが、三十年以上も居た様な気が致します。今では遠く離れ、めまぐるしい東京の生活の中で、長年に渡り外山を愛し続けて参りました。私達親子は良き故郷として、開拓時代を夢見続けて行く事でしょう。
最後に、この場をお借りして、苦楽を共にして下さった外山開拓の皆様、そして、開拓組合長様には、大変お世話になりました事、心より感謝し厚く御礼申し上げますと共に、今後とも宜しくお願い申し上げます。