御料牧場誕生までの経緯
お雇い外国人を招き入れ、全国に牧場創設を政府が後押し民間が運営を試みるも、知識が乏しく動物と気候が相手で牧場運営が難しくの一向に近代化が進まない。
近代牧畜推進を強く勧めていた最大の主導者・大久保利通が明治11年に暗殺されました。
政府を支えていた伊藤博文や岩倉具視や木戸孝允らは近代化推進で多事多忙の為、第一次産業の牧畜方面までは手が出ない状態でした。
第二次産業の製鉄や鉄道、建築など目覚ましい発展をしているのに対し、近代牧畜推進が大きな遅れを明治天皇は危惧されていました。
牧場の経営が産業方面、食糧方面、防衛方面から見て、いかに緊要(きんよう)であるかを御痛感。日本国に最も必要な牧畜・農耕推進に明治天皇陛下、御自らが陣頭指揮に立ちます。
御料牧場誕生 年表
明治14年(1881) | 千葉の下総種蓄場は内務省から農商務省に移管 |
明治17年(1884) | 北海道の新冠牧馬場は宮内省に所管 |
明治18年(1885) | 下総種畜場は農商務省から宮内省に所管。下総種畜場と改称 |
明治21年(1888) | ■宮内省下総種畜場は「下総御料牧場」と改称。新冠牧馬場も、「新冠御料牧場」と改称。新山荘輔氏が場長兼務 |
明治22年(1889) | ●大日本帝国憲法公布 |
明治23年(1890) | ・岩手県産馬会社を解体し、岩手県産馬組合を設立。外山牧場の処分を討議。 【11月1日 東北本線 盛岡~上野間開通】 |
明治24年(1891) | ・4月 産馬組合が外山牧場売却。 ■7月 外山牧場は宮内省に買上げられ「外山御料牧場」が発足。新山荘輔氏が初代場長に任命。下総・新冠の場長兼務)【小岩井農場創設】 |
明治25年(1892) | ・外山御料牧場の創業期(第一期 明治31年まで) |
下総御料牧場長に就任、経営の刷新へ
明治二十一年(一八八八)四月、荘輔は藤波侍従の随員として欧米視察を終えて四年ぶりに帰国、しかも、この年の九月、荘輔は下総御料牧場長を命ぜられている。三十二歳であった。
牧場の経営が内務省から宮内省に移管されるにあたって、明治天皇は御料牧場を設けられた趣意目的を次のように語っている。
「この牧場は、決して帝室のために設置せられたものではない。実に我が国の牧畜の発達に貢献し、その向上を促進せしめられんがためである。」と、誠に畏れ多い限りである、と荘輔自身が語っている。
そこで、この聖旨に従い、革新的な牧場経営に打ちこんでいった。こうして飼育された牛、馬、羊は、毎年若干ずつ民間に払い下げられ、良種の繁殖に資した。
さらに荘輔は、経営それ自体も民間の模範になるように努めた。そのために、独立採算制を導入、「耕主畜従」か「畜主耕従」へ経営の切替えを図ったのである。まず、場長として従来の経営状態を見直し、明治二十四年より会計を独立採算制にした。事業そのものは経済活動であり、民間の模範たるには経済的にも模範でなければならない。宮内省の補助を仰いではならない。これらを根本義として、刷新の一歩を踏み出したのである。
場員の俸給・家畜飼料等までも、牛馬の払下げによって、あるいは自ら耕作することによって自給できるようにした。また、荘輔は「場員各自の心掛けからして変えていかねばならぬ」と決心し、率先垂範して破れ服を着、誰よりも早く出勤し誰よりも遅く退勤した。誠心誠意仕事に当る場長に、場員たちも追随するようになった。
場長自ら粗衣粗食、場員には一反歩位の畑を貸し与えて銘々に耕作させるようにした。自給自足の徹底的実践であった。場長は他に定員の削減、不必要な家屋の撤去、家畜の頭数の整理淘汰等々を実行した。こうした努力の結果、明治二十六年、牧場の経営が黒字に転換したのである。
荘輔の長男春雄氏を父に持つ新山昭輔氏(荘輔の孫)は「私自身、荘輔の業績で一番好きな話は、場長着任後、改革をすぐに行い赤字続きの牧場を黒字化した点です。宮内省の牧場長即ち政府の役人にも拘らず、私企業の経営者のように実行力があり、デンと座って場員を下に見下す役人でなかったことを誇らしく思います。」と筆者に語って下さった。なにか新山家一族の家柄・人柄が伝わってくる言葉である。
下総(三里塚)御料牧場<千葉県成田市>
桜と馬の牧場として、長い間多くの人々に親しまれてきた旧宮内庁下総御料牧場が、新東京国際空港の建設にともない、昭和44年惜しまれながら栃木県塩谷郡高根沢町に移転しました。
明治の初めから三里塚の地にあって、我が国の畜産振興のパイオニアとして輝かしい足跡を残してきた御料牧場の在りし日の姿を忍び、御料牧場の名を永くこの地にとどめるため、成田市は、御料牧場事務所のあったこの場所に「成田市三里塚御料牧場記念館」を建設しました。
高村光太郎と下総御料牧場
春駒
三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場(ごれうまきば)にうつすり
もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、
雨ならけむるし露ならひかるし、
明方かけて一面に立てこめる杉の匂に、
しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ
春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ。
すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、
ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、
ただ一心に草を喰ふ。
かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい。
三里塚の春は大きいよ。
1972(昭和52)年6月26日、現在地(三里塚記念公園の貴賓館前)に立てられた。碑面は、光太郎の自筆原稿を拡大した銅版がはめ込まれている。碑陰には、草野心平による、「大正13年春 高村光太郎は この地に生涯の友水野葉舟を訪い 三里塚農場に遊んで 詩春駒を作った。(略)」が刻まれている。「春駒」は、1924(大正13)年4月13日付け朝日新聞に掲載された。詩は、「三里塚の春は大きいよ」と、下総御料牧場を歌っている。
広大な牧場、 若駒たちの愛くるしい様子を唄った高村をはじめ、 窪田空穂、 前田夕暮、 水野 葉舟、 木村荘太など多くの文人が、 下総御料牧場について短歌や小説などを残している。
「成田市三里塚御料牧場記念館」より
新冠御料牧場<北海道新ひだか町>
御料牧場とは、皇室や宮家の食材を飼育・栽培する宮内庁直轄の牧場をいいます。この牧場は1872(明治3)年に起業し、1889(同22)年御料牧場となりました。迎賓館として建てられたこの建物には、伊藤博文や大正天皇、昭和天皇が皇太子のときに行啓しています。
建物は2階建の主屋と、その前後に突き出た平屋の付属屋2棟からなります。主屋には入母屋の大屋根を架け、裳階(もこし:軒下の壁に差し掛けられた庇)を巡らせています。2階から見渡す広大な牧場の景色は圧巻だったでしょう。龍雲閣の近くには、1920(大正9)年建設の洋風の旧事務所が現存しています。[建設年]1909(明治42)年[構造]木造2階建
所在地 | 日高郡新ひだか町御園111 |
営業・開催・見学情報 | [公開の状況]非公開(イベントなどの際に特別公開あり) |
備考 | [写真出典]北海道大学建築史意匠学研究室 ※平成18年3月31日の静内町・三石町の合併により記載内容に変更のある場合があります。 |