『外山開牧百年史』
22年振りに百年史の表紙を開き過去と現在(当時)の写真ページを眺め、序文に当時の岩手県知事と玉山村村長の祝辞・目次ページと続き…歴代牧場長、一條牧夫翁・新山莊輔氏・板垣耕三氏・足澤勉氏の4人の写真が私を見つめていました。「ふ~ん。良くわからないが偉い人がいたんだ。」位でした。が、後に歴代場長4人の子孫の方々に巡り合うことになります。
本文に入り2ページ途中で私の頭がショートし煙が出ました。「維新前後」「封建制度崩壊」「未開の地に開拓」「入植者130戸が40戸」「狼の群れ」「県令」此処まででも思考は「はて?」の嵐で一杯一杯なのに2ページ目に移ると…「中央政府→東京の話?」「大久保利通→名前は知っているが何した人だっけ?」「岩倉具視→旧500円札の人」「島惟精→誰?」?????「文明も文化も何もない山の山奥の外山だったのでは?」恥ずかしながら34歳の無知な大人(私)がいました。
幼少期から中学生までは絵を描くことが好きで、工業高校進学から大学は芝居に明け暮れており、宮沢賢治とは違い成績は理科と美術以外の科目は全てアヒルの行列。まして歴史、縄文~江戸末期までは習った記憶があるが、明治時代に入ると授業日数が足りず先生から、後は良く読んでおく様にとの記憶しか残っていない。ドラマや芝居で維新ものを見たりしてはいたが、詳しくは知らない。
百年史を読み解くには、まず、いつ・どこで・だれが・何を・何のために・なぜ、に加え登場人物の人となりを調べなければならないなと、感じながら。初見は解らない事は後で詳しく調べる事にし、移住民のページで自分の曽祖父喜左衛門の名を発見。明治維新後外山に入植者した130戸余りの内、残った43戸である事をしり最後まで読み終えました。
とてつもない憤りと、大きなため息とともに思わずでた言葉「なんだ、これ?」
膨大な歴史の情報量に加え、この歴史は外山だけでなく玉山村・盛岡市・岩手県・日本国にとって重要な歴史にかかわらず、なぜ、私を含めた地元住人、玉山村民、盛岡市民、岩手県民が知らない。宮沢賢治が知っていた外山と、私の知っている外山。どこで歴史がねじ曲がりすり替わったのか?
依頼、池上先生の本と三浦先生の百年史を何度も読み返し、宮沢賢治の書簡は読んだことは無かったので宮沢賢治全集10巻を買い集め、百年史に出てくる歴史上の人物・事柄の本を探し求め奔走します。