賢治と外山(池上雄三)

外山は盛岡から東北へ24キロ離れた北上山地の高原である。起伏にとんだ地形、至る所に流れる清流、伝染病が少ない等、放牧地として最適の土地だった。明治24年から大正11年までは御料牧場として場産に力を注ぎ、大正11年から昭和12年までは岩手県種畜場となり、馬の品種改良センターの役割を果たした。隣村の玉山村とともに良馬の産地として有名であり、賑わった土地である。

賢治は19歳の春、盛岡高等農林学校に入学早々、外山を訪れ御料牧場の厩舎に繋がれたたくさんの馬を見て、馬の歌を詠んだ。九年後の28歳の春、岩手種畜場として発足したばかりの外山を訪れ、外山を舞台にして心象スケッチの圧巻というべき見事な、5編からなる詩の連作を残している。これを外山詩群と私は呼んでいる。

外山詩群は大正13年4月19日の夜から20日の朝にかけて、賢治が盛岡から外山をめざして歩きつづけたなかから生まれた。ここで賢治のスケッチをのぞいてみる。

昼間、学校で何か不愉快なことがあったらしく「しかつめらしい同僚のやつらをけとばして、なんといういゝところにおれは来たのか」とか、「あれから校長は威厳たっぷりライスカレーを食って寝たり」する様子が頭から離れない。そうかと思うと小流れの「水がころころ鳴っている」のが耳に心地好く聞こえてきて、心が和んだりする。

眠気と戦いながら谷を歩いていると鈴の音がする。賢治は道の傍らに一軒の農家を見つけ、厩で呼吸とともに首からぶら下げた鈴が震えて鳴るのを聞いて、自分もしき草のなかにもぐり込みたいと思う。又、盛岡へ戻って「静かひとりのやさしい人とねむりたい」と考えたりする。

場面は一転して、農家のいろり端で体を暖めた賢治はまぶしい陽光溢れる戸外に出てみると、街道にはぴかぴかに磨き上げられた馬が次々に現れて種馬検査所へと引かれていく。その光景を見て賢治は感動し、血潮がたぎる思いをする。刻々と移り変わる風景と賢治の心は心象スケッチの圧巻だ。

この5編の詩が生まれてくる背景にはいくつもの偶然が重なっていた。大正13年4月19日は土曜日だった。自由に使える時間があり、春をむかえたばかりの解放感がほとばしり出た。しかもその夜は満月だった。その上、翌20日は賢治の処女詩集「春の修羅」の刊行日であった。賢治は精神的にかなり高揚していたのではないかと思われる。

賢治が外山を訪れた4月20日は外山の「種馬検査」の日だった。近くの村々から、家族に引かれて、ぴかぴかに磨きたてられた馬たちが集まって賑わう日だった。賢治には「種馬検査」(種畜場の種雄馬に種付けを希望する雌馬の検査)を視察する用事があった。それに間に合うように徹夜で山道を急いだのだった。これらの条件が重なった特別な晩に、28歳のエネルギーあふれる心象スケッチの傑作が生まれたのである。

平成10年12月 
姫神スターライトプロデュース公演
「イーハトーブ光と音のシンフォニー」
パンフレットに掲載

池上 雄三 年譜

撮影:沢田 正子
1941年3月5日 北海道生まれ
  • 東京教育大学大学院文学研究科日本文学専攻修士課程修了
  • 静岡英和女学院短期大学教授
  • 静岡英和学院大学人間社会学科教授
2004年12月18日
  • 病の闘病のすえ永眠

著作リスト

「宮沢賢治Ⅱ」(日本文学研究資料叢書)共著 昭和58年2月 有精堂
「作品論宮沢賢治」 共著 昭和59年 双文社出版
「宮沢賢治の宗教世界」共著 平成4年2月  渓水社
「宮沢賢治・心象スケッチを読む」単著 平成4年6月  雄山閣

略歴

23歳(S39・1964年)宮澤賢治研究のため、花巻に滞在し宮澤清六さんの家に通う。
36歳(S52・1977年) 宮澤賢治の心象スケッチと山地の高原・外山との関係を調べるために外山に通い始める。岩手大学獣医学部教授の三浦定夫氏の『外山開牧百年誌』(1951年著)に出会い、賢治が生きていたころの外山を三浦氏と実地調査する。
45歳(S61・1986年) 4月、家族で外山に行く。カタクリの花、ヒキガエル、ヤマアマガエルの卵塊などの心象スケッチに出てくる動植物を撮影。
49歳(H2・1990年)『宮澤賢治・心象スケッチを読む』の執筆に没頭する。
50歳(H3・1991年)パーキンソン病発症
51歳(H4・1992年)6月 『宮澤賢治・心象スケッチを読む』(雄山閣出版)を出版する。
57歳(H10・1998年)12月「イーハトーブ・光と音のシンフォニー」公演を家族で観に行く。姫神スターライトの中村辰司氏が『宮澤賢治・心象スケッチを読む』を基に賢治と外山を舞台化する。

※ 池上雄三氏は36歳(1977年)のときに岩手大学獣医学部教授三浦定夫氏と出会い、賢治と外山との結びつきを実証するきっかけを得る。