第1次開拓期

外山 第1次開拓期

藩制後期から明治9年外山牧場開牧

土地を奪われた開拓移民から
日本の威信を背負う開拓移民へ

盛岡市から約28㎞、町村・岩洞からは約10㎞の中央の位置にある広大な外山の土地。山菜・天然木等の豊富な資源があるにもかかわらず藩制時代以前より人が移り住むことはありませんでした。

その要因の一つは、町村・岩洞と違い盆地である外山は、夏は灼熱、冬は八尺の積雪に加え気温が-27、8度と当時の人にとっては年間を通じ住むことは出来ない気候であった事に加え、一番の要因は山犬(オオカミ)と熊の巣窟地帯で人が立ち入れない場所だったからです。

町村・岩洞地区は盛岡に通じる旧小本街道(塩の道)の最後の宿場町。日が昇ると同時に町村・岩洞の宿場と経ち、日が沈む前までに盛岡に到着しなければ山犬(オオカミ)に襲われるため旧小本街道最大の難関区間だったそうです。

口減らしで領地を追われ
余儀なく始まった開拓

南部藩政末期、封建制度の崩壊が眼前に見えてきていた維新前夜の時代。東京に遊学できなかった若者や身分低い士族の二、三男の帰農をはかっていた対策中に戊辰戦争勃発。朝廷に刃向った盛岡藩は敗北し賊軍となり領地没収。宮城県白石市への転封(国替)について行くことが出来なかった士族が、誰も住んで居ない土地をあてがわれた場所。

それが山犬(オオカミ)の巣窟であった外山に余儀なく入植せざるを得ない状況で、険しい山の道なき道の原生林を切り開き開拓が始まりました。

日本国の威信にかけた開拓

日本国の威信にかけた開拓

外山牧場は明治9年に開牧しますが、その5年前の明治4年(1871) 岩倉使節団出発、その直後、農商務省(農林・水産・商・工業の行政)陸産局が養馬係出張所を藪川村外山に設けます。国内の政情が落ち着き、旧南部領においては再び馬産に意が注がれるようになり、外山の地に着目、養馬係出張所が設置した事で新たな開拓移民が加わります。

明治6年(1873)島県令は外山が牧場に最適と政府に申請し、明治9年に開牧を致しました。開拓移民は極寒に加え狼との闘い。毎日狼の大群に牛馬が襲われ、冬には人家まで脅かされるありさまだったので、脱落して夜逃げするものが続出。当初130余戸あった入植農家が、明治10年頃にはわずか40戸程度になっていました。その40戸の一つが、私の中村家の先祖にあたります。

ちなみに、南部藩と同様に戊辰戦争で朝廷に刃向ったが藩が賊軍となり、領地を没収され北海道新冠に転封(国替)した出来事をまとめた映画が「北の零年」になります。外山と同じ境遇の内容になっていますので是非ご覧になって下さい。

第1次開拓期 年表

慶応4年(1868)◆1月03日 戊辰戦争勃発
明治元年(1868)●9月8日 年号を明治と改元
●9月25日 戊辰戦争賊軍として盛岡藩敗北。明治政府に抵抗した盛岡藩は領地没収、白石(宮城県白石市)への転封が命じられる。
明治2年(1869)◆5月18日 戊辰戦争終結。●7月 旧領復帰運動が実り、70万両献金を条件に盛岡復帰が許される。
明治3年(1870)◆5月、盛岡藩は財政困難から廃藩置県に先立ち藩を廃止、盛岡県を置く。
明治4年(1871)●岩倉使節団出発(明治6年まで)
●7月 廃藩置県。
●盛岡菜園馬場で洋式競馬(地方初)が開催。
・農商務省陸産局 養馬係出張所を、岩手郡藪川村外山に設けた。・外山への開拓入植開始。
明治5年(1872)◆盛岡県を岩手県と改称
明治6年(1873)・外山郵便局開局
・10月 島惟精が岩手県令に任命。・島県令は外山が牧場に最適と政府に申請。
明治7年(1874)●内務省勧業寮内藤新宿出張所に農事修学場設置(後の駒場農学校、現東京大学農学部)
明治8年(1875)■大久保利通内務卿が千葉県の香取牧を視察。内務省管轄の牧場として「下総牧羊場」と「香取種畜場」を開設する事を決定。
明治9年(1876)■7月 明治天皇東北ご巡行。 (7日盛岡、8日渋民、9日沼宮内)
・8月 岩手県令島惟精は、岩手郡藪川村・浅岸両村に「県営外山牧場」を創設。
天峰山(845m)から見た岩手山(中村撮影)