歴史の明(馬事畜産の文明開化)
明治45年(1912)7月30日 明治天皇が61歳でご崩御。第三皇子の大正天皇が即位しました。大正天皇は病弱でなおかつ脳に障害があったといわれ。遠眼鏡事件などのエピソードが残されていますが、それが事実であるか、さらに障害によるものであったかどうかは定かではありません。
在位中はまだ妻妾を持つことが認められていましたが、一夫一婦を守った家庭的な天皇で子煩悩であった。臣民にも気さくに声をかけたと言われており、在位14年(大正10年11月25日付で皇太子裕仁親王が摂政に就任)47歳でご崩御いたしますが、その人柄を反映してか大正天皇の在位中は一時的に民主主義の気風が広まるり「大正デモクラシー」と呼ばれた時代でもあります。
馬のさまざまな種類の品種改良により、広大な岩手の田畑・山林は開墾が進み。土木・建設・運送も飛躍的に発展します。馬事・畜産産業の発展は経済にも大きく反映され、盛岡市の街にも大きく影響して行きます。馬検場の馬市では日本中から多くの人が押し寄せ、肴町には岩手銀行を始めとする重厚な銀行が建ち並び、八幡町の花街文化が栄え、盛岡劇場が誕生し、チャグチャグ馬っこをパレード形式に変えてしまいます。
外山では「外山節」が生まれ「駒踊り」が移入。歌人の藤波言忠(明治天皇の側近)、詩人の宮沢賢治、佐伯郁郎、伊藤勇雄。彫刻家の後藤貞行といった文化人も訪れ多くの作品を残しております。
大正の馬政 年表
明治42年(1909) | 4月、騎兵第三旅団が盛岡市に設置 10月26日ハルビン駅で、伊藤博文が暗殺 ◆水沢公園南側競馬場を東宮殿下の「東」を頂き「東競馬場」と命名。 |
明治45年 (1912) 大正元年 | ●7月30日 明治天皇崩御。大正天皇即位(大正元年) ●9月13日 明治天皇の大喪の礼の日、明治天皇を慕い、あとを追って乃木希典が殉死 |
大正03年(1914) | ・7月 御料牧場は宮内大臣の管理に属し、主馬頭の統理となり、「下総 御料牧場外山分場」と改称。 ●7月28日 第一次世界大戦勃発。 |
大正05年(1916) | ・水野熊太氏分場長(第6代)を排命。 ・外山分場の派出所を盛岡市に設立。 ・外山分場の派出所(吉与酒店)を盛岡市に設立。事務所から同派出所、各厩舎へ電話を架設 |
大正07年(1918) | ・蛇塚に事務所(白亜の洋館)を新設。 ●9月29日 原敬内閣成立。 ●11月11日 第1次世界大戦終結 |
大正09年(1920) | ●1月10日 国際連盟発足、日本も加盟国となる。新渡戸稲造が本部の事務局次長に就任。 ●3月15日 株価暴落、戦後恐慌始まる |
大正10年(1921) | ●11月4日 原首相東京駅で暗殺され、内閣総辞職。 ●11月12日 ワシントン会議開催(~大正11年2月6日)。 ●11月25日 皇太子裕仁親王が摂政に就任 |
大正11年(1922) | ●馬籍法の公布。飼育される全ての馬は「馬籍」登録の義務化。 ・11月 政府の行政整理により、「下総御料牧場外山支場」を廃止。 ・12月 外山支場は岩手県に移管。「岩手県外山種畜場」として発足 |
大正12年(1923) | ●軍馬の改良と増殖のため「競馬法」を制定 ・2月岩手県種畜場事務所を外山に移転。外山が本場、滝沢は分場となる。場長は板垣耕三氏(第三代)が継続。 ◆山田線開通(上米内駅まで) ●9月1日 関東大震災 |
大正13年(1923) | ・4月20日 岩手県外山種畜場にて種馬検査実地(検査区域・薮川村・玉山村・米内村)。宮沢賢治外山に訪れる。 |
大正14年(1923) | ・3月 足澤勉氏、四代目 種畜場長として外山に着任。外山神社を細越山上に設立。牛馬魂碑を立て、8月17日第1回の祭典を挙行。駒踊りを大野村より移入 ◆軍縮に伴い陸軍省は軍馬補充部六原支部を廃止 |
大正15年(1923) | ●12月25日 大正天皇崩御。昭和天皇が即位 |
明治45年7月30日 明治天皇崩御。東宮殿下が天皇の地位を受け継ぎ、大正と改元。
大正3年7月18日 公布の御料牧場官制により、御料牧場は宮内大臣の管理に属し、牛馬羊豚および家禽の育成・繁殖・畜産物の製造に関する事務を掌り、主馬頭がこれを統理することとなり、外山支場は外山分場と改称。
【大正3年の馬の飼養頭数】
種牡馬:洋種 5頭 / 種牝馬:洋種 20頭 / 雑種:129頭 / 幼駒:洋種 6頭 / 雑種:66頭 / 耕馬及雑役馬:28頭
大正五年に外山分場の派出所を盛岡市油町(現本町通一丁目)の吉田与四郎酒店に設置。事務所から吉与酒店派出所および各概舎へ電話を架設。吉与商店の奥室の一隅に四半坪ほどの電話室があり、そのガラス戸に「外山御料牧場電話室」と記されている。
当時、外山分場への交通機関は、馬と乗馬車(宮内省主馬寮から払下げ)で数台あった。それにより約七里の山坂道(小本街道)を南・一ノ渡・土室・小浜・庄ケ畑を経て、一日がかりで盛岡に出た。車馬は吉与酒店の厩舎内に預けられました。当時の事業は馬のみを飼養し、定数をきめて、これを超過するときは毎年、盛岡産馬組合主催のせり市に出しました。
大正7年、蛇塚に当時の近代洋風建築であった白亜の洋館が建築され、他にも厩舎を新築した。この白亜の洋館は事務所として使われていた。同じ建築様式の白亜の洋館は、千葉県の下総御料牧場、北海道の新冠御料牧場でもつくられており、設計者は不明だが同じ設計者と思われる。外山御料牧場の洋館は、昭和12年に種畜場本場が滝沢に移転する時に解体され存在しないが、下総御料牧場の洋館は記念館として建替え。新冠御料牧場の洋館は現在も健在です。
大正11年から翌12年にわたって大規模な行政整理が行なわれました。この行政整理はもちろん牧場だけを対象として行なわれたものではなく、時の政府が第一次世界大戦後の不況下における緊縮政策の一環として行なりましたものです。
これにより御料牧場の事業は大幅な整理縮小を余儀なくされるに至りました。11年11月には御料牧場官制廃止に伴って下総御料牧場の名称を宮内省下総牧場と改められ、従来主要な事業であった馬の繁殖は全面的に中止。繁殖用種馬はすべて新冠御料牧場に移し、本場ではもっぱら育成だけを行なう事となりました。
これに伴い、同年11月を最後として、明治24年以来30有余年間にわたり、御料牧場として経営された「外山分場」は遂に廃止、岩手県に移管される事が決定致しました。
岩手県種畜場開牧
宮内省より県への移管、外山本場の発足
大正11年12月御料牧場外山分場の廃止に伴い、外山分場用地6591町2畝3歩とその事務所、官舎、厩舎等全ての建築物及び備品、耕馬、貸付馬等に至るいっさいのものを岩手県に移管される事になりました。
外山分場用地は、当時帝室林野局から貸与されたものであったが、大正12年2月 滝沢にあった種畜場本場の事務は外山に移され、滝沢は分場となりました。種畜のうち、種雄馬は同年夏、県下の各出張先からそれぞれ外山に集結、種牛群は同年末に滝沢から陸路にて外山に移動させられた。以来、外山は昭和12年に至る約15年の間、岩手県種畜場の本場として経営され、多くの事績を挙げました。
移転当時の岩手県種畜場長は板垣耕三氏であり、板垣氏はかつて明治12年 外山牧場内に設置された獣医学舎の第一回生(明治12年10月8日入舎、同16年3月卒業)としても知られ、県庁畜産係から岩手種馬所や長万部種馬所の係長を経て、三代目の岩手県種畜場長となり外山種畜場場長として着任ました。
大正14年には板垣場長が退任され、足沢勉技師が場長として着任されました。足沢場長は、昭和12年の種畜場本場が滝沢に移転するまでの前後13年にわたり外山に在勤、この間、数々の画期的な事業を企画実行され、多くの業績を残されました。
詳細は、こちらのページをご覧ください。
外山が本場、滝沢は分場となる。場長は板垣耕三(第三代)氏が継続。
この年、山田線が上米内駅まで開通。それ以来、大志田駅ができるまで盛岡との往復にはもっぱら上米内駅が利用されました。
4月20日 岩手県外山種畜場にて種馬検査を実地(検査区域・薮川村・玉山村・米内村)。宮沢賢治外山に訪れ外山詩群が創作された。
外山神社を細越山上に設立。牛馬魂碑を立て、8月17日第1回の祭典を挙行。駒踊りを大野村より移入
岩手県種畜場
明治31年 | 種馬厩を盛岡市に設置 |
明治34年 | 農事試験場(3部制)を本宮村向中野(現盛岡市)に設置。種馬厩を種畜場と改名 |
明治35年 | 種畜場を盛岡市から滝沢村に移転 |
明治36年 | 農事試験場に園芸部を新設(4部制)。 |
大正 2年 | 原蚕種製造所を胆沢郡水沢町(現奥州市水沢区)に設置 |
大正 8年 | 農事試験場胆江分場を江刺郡愛宕村(現奥州市江刺区)に設置。 |
大正11年 | 原蚕種製造所を蚕業試験場(4係制:庶務・蚕種・試験・桑園)と改称 |
大正12年 | 農事試験場に病虫部を新設(5部制)外山御料牧場を種畜場に移管し、種畜場本場を玉山村(現盛岡市玉山区)に移転(滝沢は支場となる) |
昭和 2年 | 種鶏場を岩手郡巻堀村(現盛岡市玉山区)に設置 |
昭和 5年 | 農事試験場軽米農場を九戸郡軽米町に設置 蚕業試験場 一戸桑園を二戸郡一戸町に設置 |
昭和10年 | 農事試験場遠野試験地を上閉伊郡松崎(現遠野市)に設置 |
昭和12年 | 種畜場本場を滝沢村に移転。玉山は外山支場となる |
昭和39年 | 畜産試験場外山支場を外山試験地と改称 |
昭和46年 | 畜産試験場外山試験地を外山分場と改称 |
岩手県農業研究センター畜産研究所
種山畜産研究室は明治34年に「軍馬補充部六原支部種山出張所」として開設され、昭和25年に「県営種山牧野」となり同37年「種山牧野事務所」と改称、平成8年に畜産試験場「種山肉用牛改良センター」となっています。平成9年の試験研究機関の組織再編により「県畜産試験場」は「岩手県農業研究センター」の下に「畜産研究所」として位置づけられ今日に至っています。