深沢 勘一(薮川そば 主の記録)3

国土庁長官よりの表彰状を手に受賞を喜ぶ妻と筆者(平成5年)

外山節の起源について

薮川そば 主の記録 深沢勘一

私は昭和二十七年に外山入植して以来、外山の歴史として残っているものがないのを常に遺憾に思い、なんとしてでもこれを詳らかにしなればならないと念願していた。外山の歴史を調べるからには当然外山節の起源も探さなければならないことになるわけである。

私を強引に外山に入植させた伊藤勇雄氏(文学者、元県教育委員長)酒席などで、外山節を唄うときは、「わたしゃ外山の日かげのわらび、だれも折らぬで、ホダとなる」の文句は決して唄わなかった。

我々がうっかり唄うものなら「そんな外山の地元民を屈辱した唄は唄ってはならん」と怒った。そのわけを聞いてみたら「外山節は、昔、御料牧場の役人が作ったもので、この文句は役人ぶって、地元の娘を馬鹿にして唄ったもので、外山人はこんな文句は口にすべきではない」とのことだった。

あまのじゃくの私はとっさに、それはむしろ反対なのではないかと思えてならなかったのだが、反論すべき何ものも持たなかったのでそのままにしておいた。

それから二十有余年、努めて古い人達の酒席なんかに出て、その起源を追い続けてきた。たまたま、今年は外山牧場が開かれてから百周年にあたっていて、前述の外山史も是非ものにしなければと気になっていた。そんな矢先、幼少の頃外山で過した岩手大学の三浦定夫先生にお目にかかる機会を得、外山史編纂については全面的に協力してくれるということで、百周年記念行事も目鼻がついて来たので、もう一頑張り外山節の起源を追求する気になった。

外山節が御料牧場時代に外山で創作されているということは、地元民ならだれも疑をいれない。それで先ず、御料牧場がいつからなのか調べてみた。外山牧場は明治九年(一八七五年)、当時の島県令によって開設され、曲折を経て、明治二十四年(一八九一年)七月二十三日宮内省に買い上げられ、御料牧場として発足している。

次に、外山部落に現存している室坂サヨさんというお婆さんがいるが、その人は十二歳の時(数え年)から、御料牧場の草刈人夫として働きに出ていたということも判った。室坂さんが働きに出たときは、立派に外山節があって、草を積んだ馬車の上でも、乾草積みの作業をしながらも、盛んに唄われていた、ということも判った。

このことを総合してみると、いまから八十五年前に発足した御料牧場に、六十八年前の時点ですでに外山節が作られていたことは間違いない。つまり八十五年前に開かれた御料牧場に、六十八年前に唄があったということは、その差である十七年の間につくられたことになる。

更に、発足当時の場長が宮内省に業務報告をしているのをみても、発足してから第一期事業期である明治三十一年迄(つまり七年間)は唄等できるような余裕などないとみるべきで、この見方をとれば、不明期間は十年そこそこになってくる。また、室坂さんがつとめ出したとき、完成されたものとして唄われていたということは、少なくともそれより何年か前に唄いだされていたことも想像がつく。

この事に気付いたので、会う人ごとにこの話をしたら、私の友達で日野沢重見さんという人が、そうなら義父に当たってみよう、ということになった。その人は畑中福太郎さんなのである。畑中さんは昔から御料牧場で働いていた実に几帳面な人で、一日も欠かさず、自分の生活を日記にしていた人である。

氏のことばによれば、「外山節はウメ子さんのお母さんと、フユさんが唄いだしたものだ」といっておりウメ子さんとは、戸籍上はムメであり、その母は上野キッとなる。安政六年十二月四日生まれ、一八七七年御料牧場開設当時は二十九歳。フユさんは、橋本フユさんであり、明治十年一月二日生まれ開設当時は十四歳。

畑中さんは「この二人は唄も踊りもとても上手で御料牧場の草刈人夫二、三百人の中でも抜群の器量よしであった。」という。外山節の元唄のはやしことばは…

一、アーリャサッテバ、コーラサ
二、ヤンコラサッサーヤンコラサッサー
三、コラサノーサンサコラサノーサンサ

であり一のは一番早く唄われた囃子ことば、二はもとの村長米島悦郎氏がよく唄ったものの囃子、三はいまの外山節の囃子ということになるのであろう。

わたしゃ そとやまの手のない ささげ
たれにからまる あてもない
そとやま そだちで いろこそくろい
あぢはじまんの 手打ちそば

外山節については、調べるほどに説がわかれ、下総の御料牧場の分場だったため、下総唄という、よく外山節に似た唄もあるというし唄う人、聞く人によって見解が違い、その方面のことも、今後よく調べてみたいと思っている。