深沢 勘一(薮川そば 主の記録)2

薮川そば 主の記録 深沢勘一

外山開牧百年史編集の始まり

薮川そば 主の記録 深沢勘一

昭和四十七年(一九七二年)のことだったと思う。私は家の周りの桜の花が散る風の強い日、冬期分校の前のデントコーン畑の周りの木棚修理をしていたひょいと道路の方を見ると、立派な紳士とその奥さんらしい方が、大きなトーヒーの木の下で弁当をひろげようとしたが、風が強くて思うようにならない様子に私は飛んで行って我が家に入って休んでもらった。

「どちらから」と聞けば、「実は私は丁度この場所に、以前住んでいたものです」との事、さらにお聞きすると〝蛇塚御料牧場の場長をした三浦熊郎という人が私の父で、私は小学校の頃まで、ここで暮していた”との事、出された名刺を見れば、岩手大学の農学部教授三浦定夫と書いてある。

私は突然の奇縁に、少なからず驚き、且つ感激し、先生はこの付近の年寄なら誰でも知っているといわれるので、早速妻に、島川七太郎氏を呼びにやった。島川さんは、にこにこしながらやってきて、やがて酒となり、遅くなるまでにぎやかに過ごした。

外山開牧百年史の編纂に取り組む

外山に入植して以来、古老よりよく聞かされたのは、外山開牧は県営牧場に始まり、全盛時代には、菊の紋の付いた客馬車が盛岡、外山間を往復したなどという話であった。「では、その資料が残っていますか」と聞いたところ「何も無い」との返答だった。

それに役場や県の分場にも無いとのことであった。そこで私は今のうちに「どうしても、外山開発の歴史を後世に伝えなければならないと思うので、是非外山の歴史に詳しい三浦先生に、外山史の編集をお願いしたい」と話した。三浦先生はしばし考え込んでいたが、「外山部落が皆で応援するならやっても良い」と答えられた。

私もこのことを部落の皆さんに話し、時を改め幹部会を招集して、先生にも来てもらい、外山史編纂についての具体策を練るというところまで話が進んだのであった。夕方になって、その日は三浦先生は盛岡に帰られた。

それから一年、私も三浦先生との約束を忘れたわけではないが何かと忙しさに取りまぎれ、部落会を開けないでいたところ、三浦先生から「昭和五十一年(一九七六年)は、明治九年(一八七六年)外山の県営牧場が開設されてから、丁度百年になるので、この機会を逃がさずに外山史編纂の仕事をやらないか」との電話があり、私は急いで、薮川郵便局長工藤盛氏にこの相談をもちかけた。

同氏も非常に喜んで、この事業に進んで協力するといってくれ、直ちに二各方面に連絡し幹部会を局長宅で開くことに決定した。昭和四十八年の夏だったと記憶しているが、同氏宅に集まったのは次の人

小林清太郎、渡辺正二、藤原利太、島川七太郎、佐々木清人、佐藤圭、細野一夫、亀沢祥三、日野杉忠雄、立花栄三郎、藤原直吉、三上卯太郎、石川市太郎、深沢勘一、三浦定男、
十七、八人だったと思うが他の人は誰だったか思い出せない。そこで決まったのは次の通りである。

一、外山開牧百年史編集実行委員会を設立する。
二、昭和五十一年八月十七日外山神社の例祭の日に外山開牧百年祭を行う
三、昭和五十年八月までに外山開牧百年史の大網をまとめる。(たった一年しかないので、難事業である。)
四、外山史の大網がまとまったら検討会を開く。
五、必要な予算措置を講ずる(畜産農協から三十万拠出する)

委員長に三浦先生をお願いし、私は事務局長となった。私は主として戦後の外山の経緯について調べることになった。戸数の移り替り、入植者の状況、電気、電話の導入、農業の移り変り等、多忙きわまるものだった。

しかし三浦先生の方は私の百倍も忙しいことだったと思う。資料集めに県立図書館に何ヵ月か通い続けたそうである。それから問題になったのは、外山の歴史を伝えるからには、全国的に知られている外山節の起源について調べなければならない、ということだった。

それについては、当時私が「月刊みんよう社」発行、第十巻、第十二号(昭和五十一年十二月十日)、投稿し、掲載されたものを次に記してみる。