深沢 勘一(薮川そば 主の記録)1

深沢勘一

偉人 伊藤勇雄氏と私

薮川そば 主の記録 深沢勘一

私などが伊藤さんのことをどうこう言えるような者でないことはよく分かって居りますが、私の生きた証しを記するに当たり、どうしても伊藤さんについて語らなければならない。今までも断片的に伊藤さんと私との関係を述べては来ましたが、改めてその一部を補足してみたいと思う。

私は昭和二十四年頃から伊藤さんの教えを受けており、昭和二十七年九月同氏に誘われ外山に入植した。それから昭和三十三年四月役場の臨時雇として採用されるまでの五年間、毎朝五時頃になると伊藤さんの奥さんが「深沢さん、父ちゃんが呼んでますよ…」と呼びに来られた。

そこで二時間ほど開拓地の分析や各方面にわたって私に指示され、夕方には、今の私の家の道路向かいに藪川開拓組合で建てた二間に三間半の小さな事務所に立ち寄ってその日の開拓地の状況等について、私からいろいろ報告を受けることが日課でした。この開拓地を一巡り七・八キロ)毎日廻って、常に状況の把握に努められている情熱には頭の下がる思いでありました。私などは月に一度しか廻ることが出来ないのに、それは超人的な姿勢でした。

ここで或る一つの事件について書くことにします。今まで県の関係する方が生存していたり、ご当人が現役だったりして私も世間をはばかって口にしたことが無かったのですが、開拓部落では誰でも知っていることなので記すことにします。

当時、県の重要なポストに就いていた方でした。伊藤さんとは農地改革の始まった頃からの付き合いがある方でしたが、伊藤さんは、「彼は要注意人物だ」と、言っていました。要注意人物と言う位だから前から、彼のやり方を伊藤さんはことごとく気に食わない様でした。

その方は仕事上、当然薮川開拓に入った伊藤さんと対せざるを得なかったのです。彼は私たち薮川村開拓組合(別に薮川高原開拓組合)以外の○○組合に行って、「伊藤組合には反対しろ」等と、酒席などで様々けしかける始末でした。

開拓者もさるもので、すぐ相手方に告げ口したり、県の役人達が一寸でも甘いことを言うものなら、それに付け込んで思い切ったことを仕出かすのでした。例えば、奥山の薪炭材をどんどん切って売ったり、盛岡の薪炭業者が払い下げにもなっていない山に入り込んで、製炭を数カ所でやり始めたりしたのです。

伊藤さんは大いに怒って、部長室に怒鳴り込んだこともありました。しかし、○○さんもまた、私から見れば肝の坐った偉い方であると思っておりました。

伊藤さんという人は「釈迦」や「キリスト」など世界の四聖を超越した思想の持ち主(自称)とされているように、あらゆることを徹底的に勉強し、納得行くまで探求し、人類の理想郷を創造して行く考えを持つ行動の人だった。

したがって、私たちの様に労働して辛うじてその日の糧を得ているような者とは次元が違いすぎるので、開拓者や先住の部落民とは解け合い難く、いつも相反目している状態で、その間にたって私などは何時も無い知恵を絞され放しと言ったところでした。

その一例を上げると、電気導入事業に対する村当局の対応に、伊藤さんは「薮川のような辺鄙なところは住民も数少ないので、当然村で面倒をみてやるべきものであるのに何もしていない。今まで県の種畜場や国の営林署も導入し得なかった電気導入事業をやるのだから、村は積極的に援助すべきである」と主張し、当時村議であった日野杉忠雄氏に「村議会に請願書を提出するから百万円の補助を取って来てもらいたい」とお願いする一方、伊藤さん自らその議会を傍聴するため出向いたのでした。

議会で審議された結論は村内の前例に従って、資材費の一割を補助すると言うもので三十一万円とそれに村長が落成式に出席する際祝い金としての一万円を加えて、合計三十二万円と決定されたとの由。

伊藤さんは大いに憤慨され薮川の大事業をこんなに軽々しく取り扱うのなら、お前たちの援助なんか一銭たりとも要らない。その代わり「分村運動」を起こし薮川村は玉山村から離脱して盛岡に付くと息巻いたとのこと。しかし、日野杉氏が何回も伊藤さん宅を訪れてとりなし、この際幾らかの金でも貰った方が良いと言うことで説得、その金の受領は深沢が行って貰って来いと言うことになったのです。

指定された日、当時の玉山村役場へ出向き、電気導入事業の補助金を受け取りに来た旨を伝えると、村の収入役さんが出て来て「ほうお前が来たのか、伊藤のやつが来たら絶対に金を渡さないと思っていた。

あんな悪口雑言を言う者に村の金は渡せない、村長が出せと言っても公金の支出は収入役が出すべきでないと判断すれば出さなくともよい、という規則になっているから絶対に出さないつもりで居たが、お前が来たので仕様が無いので出す」とえらい権幕で言われました。

私はこんなことがあるだろうと道々覚悟していたので、ここは穏便にすませて早く貰って帰ることが得策と思い、黙ってお金だけ早々に貰って横長峰を越え帰宅した思い出がある。

ときあたかも第一回町村合併会議で玉山村・渋民村・薮川村三村の合併が来る昭和二十九年で合意していたらしいのです。そこで伊藤さんを中心に合併が出来ないような難問を村長に突き付け揉む戦術で、分村運動を進めようということになったのです。その案は次のとおりです。

一、薮川字外山に役場出張所を置くこと。
二、実費診療所をつくり、医者を常駐させること。
三、道路を整備し、岩洞までバスを運行させること。
四、警察官駐在所をすぐ設けること。
五、郵便局や部落の要所に公衆電話を設置すること。

以上五項目の要求書を持って代表者四・五人が村長室に押しかけたのです。伊藤さんの目算と私共の考えでは、大事業の電気導入にさへたった三十二万円しか出さない村長がこの五項目の要求(建物三つを建設する金五千万)を承諾する筈がないと目論んで臨んだのであった。

村長室には村長一人おり、担当の総務係が誰かを呼んでいた。伊藤さんに促されて私が要求書を読み上げ、さも勝ち誇ったような気持ちで村長の拒否の発言を待って居ると、村長は妙に落ち着き払いおもむろに「深沢さん要求はそれだけですか」と予期ぬ発言でした。私達一同は狐につままれたようであった。

一については、今年中に建築し、直ちに職員二名を派遣すること。二については、建物は今年中に建築し、来年度中に医者を配置すること。三については、バス会社に交渉し、少なくても来年度中に路線を開通させること。四については、来年度中に配置すること。五については、直ちに実施すること。

であると具体的に再度要求を突き付けたのでしたが、村長は冷静に「承諾した」と回答したのだった。要求拒否の回答と予測し、意気込んで行った我々一同は信じられない思いであった。私は再度確認すると「武士に二言は無い」との返事であったので、二つ返事の承諾に我々は拍子抜けがして唯々顔を見合わせるばかりであった。これには流石の伊藤さんも頭をかいていた。

後で聞いた事だが「町村合併の薮川の意見として、こうあるべきだ」と伊藤さんが誰かに漏らしたらしく、村長はそれをとうに読んでの回答だった。我々の分村運動はこのようなかたちで見事失敗したのだった。

また、こんなこともあった。或る夏の非常に気温が低かった朝、伊藤さんに呼ばれて行くと「今朝の茄子の味は秋の味がする。今年は秋が早いから蕎麦は早く種を蒔かなければならないと思うので早く皆に知らせたい」と自分は小左衛門の方に、私をめん舎区から大石川方面に走らせ、そのことを伝えさせたのです。この年、伊藤さんが言うように九月十五日には降霜を見たのでした。

伊藤さんはよく詩を書いていましたが、私が読んでも優れているのか秀でているのかさっぱり解らないけれど、逆境に立った時の伊藤さんの精神力と敏速で適確な行動には誠に驚くべきものがあり、開拓地区を住みよくしようと本当に頑張った人でした。

しかし伊藤さんを評して「万事理想に近い事ばかり主張して、いつも人に実行出来ない難しい事ばかり言う」とか「自分は生活が豊かで米の飯を腹一杯食っているから開拓者の苦労が解らない」とか「恐ろしいような、取っ付きにくい人だ」とか伊藤さんの力で部落が恩恵を受けているのに、地元での評判はあまりよくなかった様子でした。

伊藤さんもそのことを解っていた様でしたが特に気にしていない様子でした。そして私に「伊藤が死んで十年したら石川啄木以上に俺の書いたものが見直される時代が来る。そして私の原稿用紙一枚が十万円で売れる時が来る」と口癖のように言っておりました。今、改めて私に「伊藤さんと言う人はどんな人」と聞かれれば「余りに偉大で私共がいくら背伸びしても、足元にも及ばない偉い人でした」というしか答えられないのです。