② 藤原 嘉藤治

宮沢賢治の親友 藤原嘉藤治について

明治29年賢治と同じ年に紫波町水分に生まれた嘉藤治は、岩手師範を卒業後小学校訓導をしながら熱心に西洋音楽普及活動を行っていました。学生のころから詩や教育論文を発表する等文学的素養があり、独学ながらピアノやチェロを弾き、歌唱力もあった嘉藤治は大正10年花巻高等女学校の音楽教師として抜擢され、赴任します。

そして同じく大正10年隣り合わせの花巻農学校の教師になった賢治との運命的な出会いがあったのです。賢治と出会っていち早くその才能を感じ取った嘉藤治は、詩集「春と修羅」の出版を.強く勧めるなど親友として交友を重ね、また賢治に対して音楽的影響を与えることになります。

昭和9年秋、賢治が亡くなって1年後に花巻高等女学校を退職、翌10年正月には家族を連れて上京します。嘉藤治の胸のうちには「何としても賢さんの全集出版を成功させる」という固い決意がありました。それから10年間文圃堂版全3巻と十字屋版全7巻の賢治全集出版に実務担当として深く関わっていきます。花巻宮澤家の代理人としてあるいは証人として全集出版契約書の作成も行っています。

昭和20年2月、敗戦の色濃厚になったころようやく全集は完成します。嘉藤治は大きな仕事に一区切り付いたような気持ちで郷里の岩手紫波町へ引き上げることとし、8月終戦真近に東京を引き払います。

郷里に戻った嘉藤治は、今度は賢治の精神を実践しようと、農民になる決意をします。田畑を持たない嘉藤治は開拓農家の道を選び東根山麓に入植しますが、年齢既に49歳体力的にも開拓農業はきつい年代に入っていました。持ち前の粘りでがんばる嘉藤治の支えは、終生変わらなかった賢治への深い尊敬と思いであったろうと思われます。

開拓農民のつらい現状を何とかしようとリュックにゲートル姿で農林省へ出かけ、「宮澤賢治全集編集委員」の肩書きの名詞を持って堂々の交渉の結果、生活資金の助成を獲得するなどさまざまな開拓行政へはたらきかけも行いました。県の開拓者連盟委員長などを長年務め、昭和46年秋岩手県農政功労者として表彰、47年には勲5等瑞宝章を叙勲。昭和52年81歳で死去。

藤原 嘉藤治

明治29年紫波郡水分村小屋敷に、父嘉四郎、母マツの五男として生まれる。家庭の事情により、隣の不動村(現矢巾町)菅原家の養子となる。明治44年岩手師範入学。このころから詩を書き始め、同人誌などに多数発表。また、音楽部委員長として各種演奏会で活躍。

大正5年小学校訓導となり、気仙郡広田小、仙北小、城南小などに勤務。教育の革新を求め、自然の中での素直な子供の力を信じて伸ばすべしと文芸活動や音楽活動に邁進する。セロとの出会いもこの頃。

大正10年10月に花巻高等女学校勤務となる。この年賢治と出会い、以後12年親友として交流、音楽の面で影響を与えた。「セロ弾きのゴーシュ」のモデルと言われている。昭和10年上京。小学校の教員や大日本青年団書記などをしながら、賢治全集の出版に尽力。「賢治童話集」や詩集「農民と共に」なども編集、出版する。

昭和20年終戦と共に帰郷。東根開拓へ入る。開拓者の生活向上をめざして奮闘、各種役員を歴任。昭和46年県農政功労者として表彰。昭和47年勲五等瑞宝章叙勲。昭和52年死去満81歳。

資料提供:藤原艶子、賢治・嘉藤治こだまの会

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