③ 伊藤勇雄 小伝

伊藤勇雄 小伝

誕生

「私はラテンアメリカの中に新しい文化を、新しい田園と都市を、未来の人間生活のモデルをつくりたい。そのための教育もやりたい」と所信を表明し、昭和四十三年(一九六八)三月二日、「あるぜんちな丸」に乗船して南米パラグアイ共和国へ移住した伊藤勇雄は、明治三十一年(一八九八)九月十一日、岩手県東磐井郡薄衣村(現東磐井郡川崎村薄衣)に、父伊藤養吉、母伊藤トラの長男(四人の弟妹)として生まれた。家業は、農業であった。

勇雄は父養吉からは豪毅な気質と、母トラの涙もろい愛情とを受けついだ。そして父母の生活のなかから無言のうちに、己の額に汗して生きることを教えられた。勇雄の幼年時代、勇雄を胸に抱き、背にゆすぶって育ててくれた人は、盲目の巫女であり、仏に仕える女たちであった。

二人も三人もの巫女たちが、代わるがわる勇雄のお守りをした。そして、彼女たちの師である盲人の祖父初造は、天台宗の僧であった。祖母ヨシへは巫女であり、天才的な祈祷師で、盲目の巫女たちはみなこの弟子だった。

盲僧との運命的な出会い

明治四十一年(一九〇八)、勇雄が十歳のとき、盲人の旅の僧が勇雄の祖父初造の家に来て泊った。この僧は占いをよくした。僧は祖父初造の許にいる勇雄の容貌をうかがいながら、「この子は非常に高貴な位に昇るか、或いはあらゆる仕事のうち最も高貴な仕事をする」と予言した。

この言葉は、勇雄には生涯忘れられないものとなり、ある意味では生涯の心の支えになったようだ。明治四十一年(一九〇九)十二月二十日、勇雄が十一歳のとき、祖母ヨシへが大囲炉裏のなかに倒れて亡くなった。四十四歳であった。また、翌四十三年(一九一〇)八月十五日、まれにみる豪雨が降りつづき氾濫した北上川の水は、見るまに約六百戸の村落一帯をおそった。自然は勇雄に試練を与えるかのように、その幼き魂にかずかずの悲惨なできごとを与えた。

十四歳になった勇雄は、薄衣尋常高等小学校を卒業するとただちに生活を支えるために働かねばならなかったので、まず農夫として働いた。次に勇雄は、薄衣郵便局の郵便配達夫となったが、労働は過酷であり、賃金は安かった。

勇雄は仕事の過労で疲れ、飢えのため、吹雪の高原で危うく行き倒れて凍死しかかったこともあった。また、春浅い北上川に小舟をあやつり、流氷に取り囲まれて進退の自由を失い、押し流され、川岸の人々の助け舟に救われたこともあった。

キリスト教への目覚め

大正三年(一九一四)、十六歳の郵便配達夫である勇雄はアメリカ帰りの牧師加藤良之助からキリスト教の感化を受け、アメリカ人の牧師から洗礼を受けた。そして勇雄が十七歳のとき、加藤良之助の世話でわずか半年間だったが、仙台の北部逓信局通信生養成所で学ぶことができた。また、ここでの生活で土井晩翠や島崎藤村の詩を口ずさみ、詩による文学の目覚めを体験した。そしてこの詩への傾倒は、生涯、勇雄の支えとなるのである。

大正六年(一九一七)、勇雄が十九歳のとき、父母は唯一の力である長男の助力を期待し、勇雄の家出を阻止するために、年若い十七歳の加藤とみえと結婚させてしまうのである。それは、個人の意志によらない家族制度の因襲による結婚であった(入籍はしなかった)しかし、文学を求め、思想を求めるのに夢中だった勇雄には、この若さでの結婚は苦痛の限りであった。

大正七年(一九一八)、二十歳の勇雄は、自分自身を奮い立たせるために、妻とみえを説得し、父母をすて、故郷薄衣村を出奔した。妻ひとりだけを見送り人として、北上河畔の船着き場から小蒸汽船でひそかに旅立った(妻とみえとは終生の別れとなった)。

名乗り出る者
野の中から
巷の中から
海のほとりから
いただき
山の頂から
名乗り出る者がある。

勇雄

夢描いて東京へ、そして「新しき村」で「人間宗教」に開眼

勇雄の東京での新しい生活はパンを得ることからはじまった。しかし、勇雄はやがて求道生活に入り、キリスト教の研究に耽ってはその教義を疑わざるを得なくなり、トルストイの思想を研究した。

二十二歳の勇雄はやがて武者小路実篤を知り、彼の唱える人道主義に共鳴し、九州日向の「新しき村」の一員となった。大正十一年(一九一三)の秋、二十四歳の勇雄は、ある日忽然と自分自身の拠るべき思想——「人間宗教」に開眼した。

勇雄は求道生活のなかにあって、神を求めたが、かえって、万物の大調和に眼をひらき、人間のありのままの姿に驚喜したのである。人間の生を肯定し、生を賛美すると同時に死を肯定し、死を賛美し、人生を最高度に生きることで死の矛盾と不自然とをなくすることこそが大事であると考え人間と神とのへだたりを一掃し、自己愛とともに隣人を愛し、自己の個性を深め、かつ高め、人類社会のために役だたねばならないとする悟りが「人間宗教」である。

勇雄は恋愛、結婚、生殖に崇高な意義を認め、人間が美しく、叡智にみち、愛にみち、逞しく、健康であり、長寿であることを祈念する。「人間宗教」に開眼した勇雄は、地上からいっさいの不幸と悲惨を解消させ、地上に楽園をつくるために行者となり、使徒となって尽力したい――と決意した。

この「人間宗教」に開眼し、新しい思想の発生とともに、新しい詩が誕生した。また、このとき、『草の葉』の詩人ウォルト・ホイットマンに傾倒している自分を知った。

勇雄はこの新しい眼と精神とをもって再び上京したが、大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災に遭遇した。勇雄は猛火のなかで泣き叫ぶ人々を救いつづけたが、自分は朝鮮人と間違えられて、危うく殺されそうになり、警官の手で助けられ、故郷岩手の父母の許へ帰るのである。

村民のために献身する政治家・勇雄

勇雄は郷土にあって農民運動、労働運動に挺身し、大正十三年(一九二四)十一月には、最初の詩集『名乗り出る者』も一千部自費出版した。勇雄が二十六歳のときで、自らの思想と実践をひっさげて、世界に名乗り出る者の気概をこめた出版であった。

昭和三年(一九二八)五月二十五日、二十九歳の勇雄は佐藤ツギと結婚し、昭和七年(一九三二)五月五日には貧しい人々のために会員制の東磐実費診療所(現千厩町)や薄衣実費診療所(現川崎村)を設立した。そして勇雄は、東磐実費診療所を産業組合法による組合病院(現千厩病院)にまで発展させるために奔走した。

また、生活の途を奪われ、信仰の道を封ぜられた盲僧盲女を救うために、宗教団体『大和教』(昭和二十四年、大和宗と改称、総本山を大乗寺とした)の設立に心血を注いだのであった。

さらに勇雄は、砂鉄川漁業組合をつくり、砂鉄川に仔鮎を放流し、太平洋戦争のさなかには蛋白資源確保のために河川や湖沼に魚の放流を行い、栄誉も富も捨てて働いた。勇雄は同時に村会議員として、県会議員として、村政、県政の刷新に寝食を忘れたのであった。

しかし、昭和二十三年(一九四八)六月七日、妻ツギを亡くした。四十二歳の若さであった。勇雄は妻ツギを亡くしたかなしみを乗り越え、人生をさらに力強く切り拓いていくのであった。そしてその後、勇雄は福井エソと三度目の結婚(入籍、昭和二十七年九月二十六日)をする。

外山高原への入植–岩洞湖畔に楽園を

昭和二十七年(一九五二)五月十五日、県教育委員の要職にあった五十三歳の勇雄は、「最も恵まれない自然条件の高冷地でも、こんな楽しい人間生活が可能だ、という一つのモデルをつくりたい」といって、一台のトラックの上には、家族七名、そして雌牛、緬羊、犬、鶏、家財道具などを積み込み、新開拓民の一員として、全国でも有名な高冷地、外山高原の薮川地区開拓地(現岩手郡玉山村大字薮川外山)へ入植した。

勇雄は厳しい自然と戦いながら家族を養い、薮川開拓組合を設立し、その組合長となって恵まれない開拓民を励ました。また勇雄は、薮川地区開拓地に電気を引いた。やがて勇雄は、昭和三十二年(一九五七)六月に開所した日赤薮川診療所をはじめ、公民館や村役場、薮川出張所、それに外山小学校蛇塚冬期分校をつくった。

また、開拓者のために道路を拓き、橋を架けた。そして馬の飼育しか知らなかった人々に、牛の飼育をすすめ、乳牛を導入し、デントコーンをまき、サイロをつくり、その飼料をつくることを教えた。牛乳を飲むこと、それによって飢えをしのぐことも教えた。

さらに伐木ばかりつづいて、ほとんど裸であった山に植林することを、昭和三十五年(一九六〇)十二月に完成した岩洞ダムには鯉を放流するなど魚を殖やすことをはじめた。こうして勇雄は、薮川地区開拓地で約十六ヵ年間、筆舌につくしがたい困苦に耐え、先に立って開拓民を指導し、ついに高冷地開拓の成果をあげたのであった。

理想郷を建設せんとして、南米パラグアイへ移住

昭和四十三年(一九六八)三月二日、勇雄は七十歳に近づいた目を、はるか南米パラグアイ共和国に転じ、そのイグアス移住地の一角に『人類文化学園』と称する理想郷を建設せんとして旅立った。

勇雄が原始林のなかにつくろうとした『人類文化学園』は、「国際学園」ともいうべきもので、ここに学ぶことを希望するものは人種、国境を越えて何人にも門戸を開放するものであった。

このイグアス移住地には、亜熱帯の木々が茂り、その間に天然の果実、レモンが色づき、春が来ればラパーチョの紅い花が密林を色どり、夏にはカナフートの黄色の花が密林を飾った。そして密林のなかにいる鹿や猿、川辺に棲むワニや川豚などいろんな動物たちのいるなかで、勇雄はパラグアイ人とともに木々を切り、木々を焼き、植林をし、牧草を植え、家を建てた。

また、マンジョカ(芋)をつくり、稲を植え、果樹を育て、乳牛を飼って乳を搾り、豚や鶏を飼うのであった。さらに勇雄は、移住地に文明の明かりともいえる電気を引くために奔走し、その実現のために身命を惜しむことなく奮励した。

昭和四十九年(一九七四)十二月二十四日、勇雄はブラジルサンパウロ州ミランダポリス市アリアンサの弓場農場(南米の「新しき村」ともいわれる)を訪れ、クリスマス恒例の弓場バレエ団の公演を楽しんだ。

しかし、二十六日、弓場農場から一六二キロ離れた建設中のダムの発電所を見学したその日の夜半に腸閉塞が再発し、二十九日、ミランダポリス市のクリニカ州立病院に入院した。イグアス移住地から駆けつけてきた妻エソと五男玄一郎、そして弓場農場一家を挙げて人々は看護にあたった。が、手当てのかいなく、惜しくも昭和五十年(一九七五)一月八日午前六時三十分、腸閉塞のためにクリニカ州立病院で亡くなった。享年七十六歳。パラグアイ共和国へ移住して七年目の死であった。