歴史探索の経緯(続き6)

歴史探索の経緯(続き6)成田山 新勝寺

1999年(平成11年)7月 池上先生から教えて頂いた「フィールドワーク」を実践するべく関東にもどり国立国会図書館へ行く前に、百年史に書かれていた場所と歴史上の人物を調べ上げ、いざ国立国会図書館へ。国立国会図書館で、三浦先生が引用した資料を発見。百年史編纂の為にここまで来ていた事にただただ脱帽しました。

ただ、年間契約をしていた出版社2社の編集部がそれぞれ閉鎖されたため、経済的に困窮。約3年間は仕事の合間に国立国会図書館と本屋めぐりに費やさられました。

国立国会図書館で千葉県成田市の「下総御料牧場」は閉鎖され三里塚記念館が設立されたことを知ります。今のようなネットの時代でない為、地図を広げ所在地を確認し訪問する事にしました。

千葉県成田市
「下総御料牧場」三里塚記念館訪問

1992年(平成4年)2月8日が乃木神社(東京都赤坂)での挙式日で、私たち夫婦は仕事柄、日常生活ではすれ違いが多かったため、記念日くらいは毎年お互いに仕事を休みのんびり旅行をしようと決めていました。

2003年(平成15年)は2月9日~二泊三日で千葉の成田山を経由し九十九里浜に旅行先を決め、途中「下総御料牧場」三里塚記念館に立ち寄る計画を立てました。

2月9日午後2時、記念館に到着。マロニエ並木と通り記念館の中へ。来場者は私たち夫婦のみ。いきなり目に飛び込んできた黒光りした馬車。「すっ、凄い。キッ、菊のエンブレム」と圧倒され。お上りさん状態の観光客でした。順路に沿って左に向かうと壁に略年表があり目で追うと一か所で目が止まりました。

「明治38年 外山御料牧場を本場に合併。下総御料牧場外山支場と改称。」

外山の2文字が、外山の2文字が……なんだろ。父・祖父・曽祖父の生きた証が、苦労が刻まれている。誇らしく、うれしくもあり、悔しさと悲しみと怒りが同時に沸き上がる。心の整理がつかない状態で、目頭を熱くしその場を離れることが出来ませんでした。

立ち止まったまま動かない私に気づいた職員(館長なのか伺えなかった)の方が事務所から出てきて「どちらからお越しですか」と問いかけてきました。私は年表を指さし「外山御料牧場があった薮川外山の…」言いかけた時…「それは、それは遠路遥々ようこそおいで下さいました。」と職員の方は姿勢を正し、角度が45度の深揖(しんゆう)のお辞儀をしてくださいました。

外山を見下される事はあってもお辞儀をされたのは初めての体験。しかも、丁寧なお辞儀。妻もビックリしており私は目を点にし、あわててお辞儀をし「出身は外山ですが、現在は茨城県古河市に在住です。」と答えると、「そうでしたか。ですが薮川外山から来られた人は初めてだと思います。」とおっしゃり、記念館のパンフレットと小学生が社会見学で配る冊子を渡してくださり説明をして下さいました。VIP待遇?

「三里塚下総御料牧場記念館」が出来た経緯は、成田国際空港建設のため昭和44年(1969年)に御料牧場は栃木県の高根沢町に移され『下総御料牧場』の名忘れないようにとできたとの事。御料牧場が出来るまでの日本の牧場の歴史。明治時代、日本の民を諸外国から守る為、最先端西洋技術「土木・建築・畜産・農業・林業・獣医学・農学等々」を導入し、大久保利通が国の威信にかけた一大事業だった事。

御料牧場の役割。新山莊輔場長(開牧史にあった写真の人)が3か所の牧場と小岩井農場の場長を務めていた事。等々、初めて聞くことだらけで頭がショートしながらも丁寧親切に説明して下さいました。そして、私と妻は三浦先生が残してくれた百年史がとんでもない事になっていると改めて確信した瞬間でした。

そして、三里塚の地を訪れた文人コーナーで、高村光太郎の写真が…「はて?なんでいるの?」高村光太郎だけでなく水野葉舟や木村荘太や窪田空穂。気になった方は調べて下さい。驚きますよ。この文化人が、後に宮沢賢治と外山牧場に関係のある高村光太郎→武者小路実篤→藤原嘉藤治→伊藤勇雄とつながっていきます。そして一通り館内を案内して下さった職員の方が私に問いました。

「南部岩手は馬と牛の圀。岩手ではどの様に皆様にお伝えしているのですか?」

ものすごい衝撃とショックでした。考えてみれば、岩手にはこの様な施設は……無い。私は、自分の生まれ育った外山の歴史が無い事が疑問でここに来た旨をお伝えしました。職員の方は、「もしも御料牧場の事をもっとお知りになりたいならば、小学校の職員を定年した後、この記念館の館長をしておられた【新島新吾さん】を、ご紹介いたしましょうか。お父様が御料牧場で職員をされていたので、ものすごく詳しいしい方ですよ。」

速攻でご紹介していただく事をお願いし、連絡先を教えて頂きました。無知だった私を案内して頂いた職員の方にお礼を言い、「フィールドワーク」凄すぎと三里塚記念館を後にしました。

九十九里浜の宿に向かう車中、あのお辞儀は何だったのだろうと、妻に問うと「御料牧場の歴史を熟知している方だから、開拓を始めた先人がどれだけ大変だったか敬意を表したのではないかな」なるほど…と感傷に浸りながら、未知の歴史の世界に夫婦で第一歩を踏み込んでしまい後戻りできない事になるとは知らずに車を走らせました。

2007年(平成19年)6月 池上先生の本に巡り合い9年目。外山の散らばっていた歴史のジグソーパズルを集めはめ込み歴史の全貌が表に出たことで、依頼主である玉山村村長 工藤久徳氏に最終報告。ですが、2006年(平成18年)1月 玉山村は盛岡市に編入合併で、窓口が盛岡市に変わった事を告げられます。