『外山小学校創立百周年記念誌』
昭和62年8月2日発行
『蛍雪の百年 そとやま』
旧職員の手記:大森 澄子(旧姓深沢)
在職年月:昭和33.04.01~昭和36.03.31
フーフー・ゼーゼーといいながら登ること、登ること、背中のリュックが重い。いつの間にか、郵便物をしょったお兄さんは、曲りくねった雪山道から姿を消している。時折「ホーホケキョ、ケキョケキョ。」と鳴くうぐいすの声に、立ち留まり耳をすます。社会人第一歩として新任地の外山小学校に向かう大志田駅からの山登りなのです。
三、四年生複式学級の担任、野原で相撲をとり先生の腰ぐらいのチビッコにころりとひっくりかえされて、腰の強いのに驚かされたり、雪がチラチラ降る頃、ストーブ用のたきぎを窓下に積む作業、勉強しているよりはよいと喜々としている子ども達にくらべ、私はもう、手の感覚もなく、すっかり冷え、あたたかい職員室に戻ったとたん、全身がジンジンとなり、具合を悪くしてダウンしたこと、寒さに強い子ども達にもびっくりさせられたりもしました。
五月頃まではトラックも通らない、とざされた外山、子ども達の最大の希望はトラックの運転手になることだったと記憶しています。当時は小中併設で用務員さんもいなかったのに冬になり、学校に行くと、もう教室中のストーブはがんがん燃えている、いったい誰がやるのだろうとふしぎでした。ところが子ども達だったのです。
放課後、中学生に小学生が混じって、何かをしているので見ると、なたを器用に使って、太い薪をみるみる細かにし、教室の後ろに交互に積み重ねて、明日のたきつけ用に乾していくのです。全く、よく働く子ども達でした。だから掃除も一生けんめい、ピカピカ廊下で、来客にほめられたものでした。
水は校庭を横切り道路をへだてた小川にチョロチョロ出るわき水をバケツで汲んで使った記憶があります。そのわき水を飲んでゲーリ1クーパー、二、三日寝こんだことがありました。春は放牧の牛のおしっこが混じっているから、はじめての人は皆、下痢をする、と笑われたこともありました。またそこには、わんさと蛙が卵を生みつけるところでもありました。
修学旅行、北海道に連れて行きたい、ところが中学生は大人の汽車料金で高い、どうしようと職員会議、結局は外山中の子どもは背も低いし、学生といってもわかるまい、小学生で行こうとなり、中一~中三全員、函館までの修学旅行、宿では「ひねくれた小学生ね。」といわれて首をすくめながらも楽しく旅行は終わりましたが、帰ってから問題が出てきました。大志田駅だけはバレてしまったのです。学校長が一升ぶらさげてあやまりにいき、それで終わりましたが、昔はどこも寛大なものだったと思います。
夏になると、授業中に魚とりをしたことも忘れられません。中学生が小川をせき止め、手づかみ川魚をとるのです。バケツせましというくらいの大きい魚を、ビショビショさせて教室にもってきたものでした。
春と秋に農繁休業が一週間ぐらいずつありましたが、その頃になると学校は保育園なみになり、三、四年生でも自分の背丈ぐらいの弟・妹を背負って、おしめを持って学校に来るのでした。教室の後ろに寝かせたり、席に一緒に座わったりして授業を受けました。泣くとおしめを取り替えるのです。今ではとても考えられないことです。
マイナス三十度近くに冷えこんだ日は、部屋の壁が全部凍って氷の花がつき、ふとんのえりも自分のはく息でガバガバと凍り、枕元は吹きこんだ小雪でサラリと積もっていました。そんな寒い部屋にストーブもなく炭火のこたつひとつで、よく過ごしたものと思います。また、冬の夜は青年学級が開かれ、「星はなんでも知っている…。」の曲で社交ダンスなどを教えて楽しんだものでした。
「馬の背を歩く」という言葉がありますが、感したのも外山です。春近くの山の雪道、人が踏んだ一歩一歩どおり歩かないと、ズボッと胸まで雪の中に入ってしまう。ようやく抜き出るとまた片方がズボリ。あの大志田駅までの山道はつらかったなあと思います。
部落懇談会があると手打ちソバを必ずごちそうになり、きじのだし汁、うさぎのだし汁、おいしかったです。また、おいしいといえば、あのスががザクザクささっている、がっくら漬け、なんといっても漬け物は一級品ぞろいだった気がします。
今から約三十年前の外山でのこと、若さだけがとりえだったと思う教師が、この地でいろんな経験をし、たくさんの想い出が生まれました。なつかしく頭に浮ぶ出来毎のほんの一部分を羅列しました。あの頃教えた子ども達、三十七才、働き盛りのすてきなお父さん、お母さんになっていることでしょう。外山のますますの発展を祈念いたします。