上田農夫と外山牧場と後藤貞行

後藤貞行 金華山号
金華山号(明治天皇の御料馬):後藤貞行(彫刻家)作

上田農夫と外山牧場と後藤貞行1

明治九年の七月、明治天皇のご巡幸の際、警部上田農夫は起漲号に乗って水沢近くの若柳に天皇を奉迎、盛岡まで先導警護にあたり、天皇のご出立に際しては青森県境まで奉送したが、あまりに賢いこの馬の動作が天皇のお目に留まり後年(一八七八)宮内省のお召しとなる。

当時、宮内省のお買い上げといえば馬産県として唯一の名誉であり誇りであった。「宮内省御用達」が一たん世間に知れわたると、この馬の生産者や馬商たちまで商売繁昌の神が舞い込んだとばかりに浮き立ちお祭り騒ぎになったといわれる。

「金華山号」御料馬の首位に

懸額は後藤貞行の処女作

起漲号は宮城県玉造郡の農家の産。明治九年(一八七六)の夏から藪川村の官営外山。牧場に繋養、同十一年(一八七八)の春、宮内省に移り引き続き同二十六年(一八九三)まで十五年間、御料馬として滞りなく要務を果たし、同二十八年(一八九五)老衰で亡くなるまで、二十七歳の寿齢を全うした。

御料馬になった直後「金華山号」と改められ目賀田雅周が調教を積んで明治十三年(一八八〇)に天皇がはじめてご騎乗になりその後、長年にわたりご愛馬としてねぎらわれた。金華山号はその性格が温順である一面、勇猛、敏感で大砲の砲声など激しい音響にも泰然自若として動じなかった。

日本馬政史によると「万馬いななき蹄響地を動かす間にありても終始姿勢を正し、天皇のご騎馬を察知すれば一声高く嘶き前肢を伸張して自ら最敬礼の形を顕した」と記録されている。

また北陸ご巡幸の折には、たまたま土橋の危険を知った金華山号が止まって動かず、これを不審に思った天皇が随員をして土橋を検分された結果、大きな破損箇所を発見「金華山号は素晴らしい名馬である」と絶讃されたといい伝えられている。

金華山号は明治天皇の御料馬中、首位におかれる名馬になったが、「乗る人の心をはやく知る馬は ものいふよりもあはれなりけりと」御製を詠まれ晩年には、「久しくもわが飼ふ駒の老いゆくを 悔しむは人のかはらさりけり」との御製を賜っている。

いま金華山号の毛皮は剥製にされ骨格は標本としてそれぞれ明治神宮の聖徳記念絵画館に保存されている。顧みれば、後藤貞行が偶然盛岡で上田農夫と会ったのが機縁で、外山で起漲号との出会いの縁を結んだが、起漲号が御料馬(金華山号)に召された後々までも貞行は宮内省の特命をうけてこの名馬の彫刻やブロンズを数多く後世に残した。

このほかにも貞行は、宮城門前の楠木正成の騎馬像(明治二十九年造)をはじめ生前の遺作となった盛岡の岩手公園本丸にあった南部利祥中尉銅像(明治四十一年造)=いずれも馬体部分の原型制作=など、全国の馬像原型のほとんどを手掛けたことで有名である。

日本一の馬産県と、日本一の馬匹彫刻家になることをあこがれて二人が未来を語りあっ外山での農夫と貞行の出会いから…やがて十数年の歳月が流れて、ついに貞行は斯界で押しも押されぬ巨匠となり、一方、岩手県は日本一の馬産県になった。

そして農夫は明治二十八年(一八九五)、貞行は同三十六年(一九〇三)にいずれも他界したが、金華山号像型の処女作となったこの「起漲号懸額」作製の遠い在りし日の思い出は、帰らざる二人の生涯にとって、回想つきるところを知らぬ若き日の感激であったに違いない。

起漲号の原型(貞行作)は代々私の家に保存されているが、かつて三十年ほど前、私はこの原型を基に郷土特産の南部鉄器で鋳工、商品化することを市役所や銀行から奨められた経緯がある。しかし亡父十郎が「天皇や父を売り物にすることはよくない」といって反対、世に出ぬ秘蔵品になってしまった。

金華山号について(箱書き全文)

金華山号は一八七六年(明・九)警部上田農夫のち岩手県議会議長・衆議院議員)が明治天皇に献上、御乗馬中の首位におかれた名馬であり

久しくも 我が飼ふ駒の老いゆくを
惜しむは人のかはらさりけり

という御製を給っている。一九七五年、馬匹鋳工の巨匠後藤貞行が日本一の馬産地盛岡を偶々視察の折、外山牧場に放牧中の農夫の乗用馬金華山号に目を留め、石膏で北上の山野を駆けるこの名馬の懸額(直径二七・八センチ)を作って農夫に贈った。

この文鎮はその懸額を原型のまま縮小、限定複製したものである。(金華山号物語は盛岡市政夜話に詳報)
著者・上田武夫謹呈

資料提供:軍馬の郷 六原資料館

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産馬天覧の儀に浴す
調馬会菜園で初の洋式競馬

上田農夫

明治十四年(一八八一)産馬事業が官営から民営の「産馬会社」に移って同社事務長に就任した農夫は、差し当たって馬種の抜本的改良に重点をおくことを考えた。まず在来種に依存せず、洋種馬の積極的導入を図ることにあった。

かねがね産馬の環境にめぐまれた本県の重点産業は「産馬事業以外にない」と考え馬事振興に奔走してきたが、生産馬の資質向上ははかばかしくなく、加えて牧畜仕法金制度によって年産八、九万頭といわれる畜産農家たちの生活は、重課税に替わる仕法金徴収の過大な吸い上げに疲弊困憊、目にあまる窮状を告げていた。

本県独特の慣習的搾取制度の元凶といわれたこの仕法金制度が漸く民営に移り構造上の改革第一歩を実現、区切りがついたこの年の八月二十日、ちょうど明治天皇の二度目の御巡幸があった。農夫は産馬会社を代表して賀表を奉呈、馬産県岩手を披瀝「行在所において天皇の産馬天覧の儀に浴した」と伝記に記録されている。

明治十六年(一八八三)から農夫は洋種馬の導入に本腰を据えるが、本県にはそれまでも若干の米・墺種が繋養されていた。しかしそれなりに長短があるので広く英・仏種、亜細亜種を新たに輸入、一段と南部駒の改良に取り組んだ。

明治十七年(一八八四)二月、島惟精(初代県令)が内務省に転出後その後任に石井省一郎が県令(のち地方官制県知事)に着任した。石井も島同様、中央政府が任命した反民権派の天下り官僚であったため農夫とはあまり折り合いがよくなかった。

本来、東北を毛嫌う薩長藩閥意識の高い官制ムードそのものにも農夫は釈然としない先観があったのかも知れない。しかしその後、石井にはかつての島県令にみられない自由民権に対する理解力と、県政に対する積極的行動力とが瞭然としてきた。

石井が県令に赴任間もない七月、農夫らの提案で県の発表に画期的新風をそそぐ県主催の勧業物産博覧会諮問会を新設したのを皮切りに従来の獣医学舎を県営に移管、岩手獣医省学校と改称、洋種馬の導入などにも関心を示し畜産振興対策に耳を傾けるようになった。

農夫は洋種馬を導入、南部駒改良の過程で同年(一八八四)十月、尾高惇忠らと調馬会を結成、仁王村の菜園で初めて洋式競馬を行った。それまでだんぶくろ(袴とズボンの折衷)を履いて騎乗、数頭の馬が競い合った流鏑馬形式の「競べ馬」が不忍池端などで行われた記録はあるが、一般観衆を集めて洋式競馬を実施したのはわが国競馬の草分けといわれる。

そして翌十八年(一八八五)には産馬維持規則を設け馬籍、糶駒法、種牡馬の貸与、産馬資金の貸し付けや三牧場(外山・葉水・茨島)、産馬事務所、付属厩舎、獣医学校の維持方法などについても次々に規則を制定した。

こうして、薩長藩閥政治の東北蔑視政策と、これに対決する多数民権派議員との間に繰り広げられてきた感情的しこりは、石井の着任によって次第に雪解けのきざしをみせてきた。

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常時百数十頭を繋養
外山牧場・飛躍的に発展

天皇の御巡幸を記念し明治九年(一八七六)に官営牧場として創設した外山牧場はその後、御料馬に召された名馬「金華山号」生誕の歴史と共に、十余万頭を生産する日本一の馬産県 岩手のシンボル牧場となった。

明治十二年(一八七九)農夫は外山牧場内に獣医学舎(のち獣医学校と改称)を創設して牛馬の去勢術を奨励、同十三年(一八八〇)慣習的糶駒金の搾取制度(牧畜仕法金=糶駒金五官五民配分)の悪習を改めるため「牧畜仕法金・官民分離議案」を県に提出する一方、同趣旨の建議書をもって内務卿(松方正義)に直訴した。

明治十四年(一八八一)産馬会社を創立、事務長となり、官営の仕法金制度を民営会社直営に移し糶駒金徴収を二官八民に改正、さらに外山、茨島両牧場の事業を県から同産馬会社が継承、民営化した。同十六年(一八八三)六月、公選による産馬委員制度がとられると、産馬会社を一本化して盛岡産馬事務所を発足させ事務長に選ばれた。

産馬事務所は馬匹増産、馬質向上を一段と高めるため洋種馬を導入、外国産種牡馬の交配による改良促進に重点をおき広く墺米系種、英仏系種、亜細亜系種の輸入を図った。

そして面積千八百九十五町歩(千八百七十万平方メートル)の広大な外山牧場は、創立十余年で常時保有馬頭数百五十頭(繁殖用牝馬百二、三十頭。種牡馬十数頭)を繋養、全国に名声を博した南部駒生産の原動力となり、わが国屈指の牧場として飛躍的発展を遂げた。

産馬事業が軌道に乗ったので農夫は明治二十二年(一八八九)産馬事務長を辞任した。同十二年(一八七九)以来県会議長をつとめ長年産馬事務長を兼任してきたが、同二十三年(一八九〇)七月の国会開設に伴う第一回総選挙(衆議院議員)に立候補するため、身辺が急に多忙になったことが辞任の理由であったともいわれている。

やがて外山牧場は宮内省の買収が決まり明治二十四年(一八九一)七月、外山御料牧場となる。その前年「宮内省お買い上げ」が決まるや、産馬事務所は急に牧場財産の引き継ぎ事務に忙殺された。

宮内省に引き継ぐ前段階で、牧場管理委員会が発足したが、明治二十三年(一八九〇)三月末日現在で同管理委員会が作成した ①外山牧場財産引請目録 ②諸帳簿動物諸機械引請目録 ③現金引請目録をみると、外山牧場の当時の全容を知ることができる。

これらの書類はみな産馬会社専用の和罫紙に墨筆で詳細に明記され、末尾に外山牧場管理委員坂牛祐直、阿部豊年、中村栄儒が署名捺印。
前産馬事務長上田農夫 代理江釣子吉亨殿「右之通り相違なく御引受申候也」となっている。

まず「外山牧場財産引請目録」の内訳をみると、

家屋の部
▽甲舎(弐百二十坪)▽板倉(二十七坪)▽役所(三十三坪)▽甲貸屋(三十坪)▽乙貸屋(十八坪)▽秣小屋(二十一坪)▽旧獣医学舎(四十五坪)▽病畜舎(三十五坪)▽乙舎(八十五坪)▽収穫小屋(二十一坪)▽便所一棟。
葉水(分牧場)の部
▽(百二十四坪)▽仮厩(二十八坪)▽小屋(十一坪)
地所の部(外山)
千八百九十五町五反九畝七歩(畑二十町六反六敵、草山千八百七十三町一反九畝、宅地一町七反四畝)
牛馬の部(外山)
牧馬百五十頭(牝百三十五頭、牡十五頭)。牛六頭(牝二頭、牡四頭)その他=飼料、薪炭、什器備品、日誌、諸帳簿など数百点。
現金
三百八十五円五十六銭(証券印紙一銭貼付)