嘉永元年~明治二十八年(1848~1895)
馬産家、政治家として大きな功績を残した上田農夫は、旧南部藩士上田長治の二男として、岩手郡東中野村(現盛岡市)で生まれた。作人館で学び、戸田一心流の剣と弓術、馬術を身につけ、明治維新後、岩手県
警部となって、久慈や一関署長を歴任、西南戦争のときは出征を志願するなど、一時は体制側にあったが、一転して自由民権運動に投じ、鈴木舎定、谷川尚忠らと政治結社「求我社」を組織、藩閥政治の打倒に活躍した。
そして明治十二年(1879)の第一回県議会議員選挙で当選、議長に選ばれて、七期議長をつとめている。この間、馬産事業の合理化をめざして産馬会社を設立し、県営牧場を民営に移管したり、獣医学舎の創設、馬市の運営改善などに尽力した。
十四年自由党に入党、求我社社長もつとめた。産馬会社に洋種馬を導入して馬種改良を推進、獣医学舎を県立獣医学校として充実を図るなど、馬産県としての県行政の確立、民営事業を充実した恩人。二十五年衆議院議員に当選、活躍を期待されたが、二十八年八月、心臓マヒのため、四十八歳で死去した。
いわての競馬史
上田農夫は1848年(嘉永元年)5月30日、岩手郡東中野村馬場小路(現:盛岡市馬場町)にて盛岡藩士上田長治の次男として生まれた。元々勇馬という幼名だったが、父長治がその乱暴ぶりを心配し、勇の字をとって馬太郎と変えている。
1873年(明治6年)、書籍閲覧所として求我社が創設され、農夫も発起人に名をつらねる。のちに同社は岩手県の自由民権運動の拠点となり、農夫もその中心として鵜飼節郎、坂本安孝らと行動を共にした。1879年(明治12年)5月には太政官より布告された「府県会規則」による通常議会が開催され、農夫は互選により議長に選ばれる。
以降8期10余年にわたって議長を務めており、鈴木巌はその才腕を“われらの知り得る限りにおいて、わが岩手県会にはかつて氏ほどの名議長なく”と評している。また「産馬会社」事務長として本県の産馬事業の振興や、私立共立学校(現:盛岡白百合学園高等学校)の設立など、産業や教育の分野でも活躍した。
1871年(明治4年)11月、中央政府から盛岡県に島惟精が県令として派遣される。この時に馬太郎から農夫に名を改めるが、これは、東北を「白河以北一山百文」と評し、地方を軽視する薩長政府に対する反骨意識の現れではないかと息子の十郎は語っている。掲載日:平成20年6月10日 教育委員会 歴史文化課