歴史探索の経緯(続き4)

池上雄三先生宅におしかけて

池上雄三先生宅 訪問

宮沢賢治 心象スケッチを読む』を読んでから、どうしても作者である池上先生にお会いし、お話を直接伺いたい衝動にかられた私は、知り合いの賢治研究者に先生の連絡先を教えてほしいとお願いしました。直接のつながりが無いので多少時間がかかるかもしれないが確認して後日連絡するとの事でした。

1998年(平成10年)7月下旬、池上先生の連絡先を教えていただき、先生ご本人と直接お電話でお話しすることができました。自分の名前を告げ、私が外山出身で先生の本を読み、茨城県古河市に住みながら、玉山村活性化の活動をしており、先生に直接会ってお話を伺いたい旨をお伝えしました。かなり興奮していたので早口だったと思います。先生から「どうぞお越しください」との返答をいただき、先生のご都合の良い日にお伺いする事に致しました。

1998年(平成10年)8月7日 午後1時 池上先生のお宅にお邪魔しました。外山を歩き回る本に掲載されている爽やかな先生を思いえがいていたので、部屋に招かれ池上先生が「パーキンソン病」の病に侵さされている事を告げられた時は…言葉が出ませんでした。

『宮沢賢治 心象スケッチを読む』が出版される1年程前、先生が50歳の時に発症されたそうです。(この病は主に50歳以上の中高年に見られる進行性の疾患で、手足のこわばりといった軽い症状から、最悪の場合は寝たきり状態になることもあり、現代の医学では完治が困難な難病)会話はゆっくりでしたが、大正時代の薮川外山地図を広げ外山談義をすることが出来ました。

賢治は、大正13年4月19日~20日に旧小本街道を通り外山詩群を創作した以外にも、様々なルート通り何度も外山に訪れており、詩や童話を創作したと思われるのだが、これを実証するのかなりハードルが高く難しい事を教えて頂きました。

先生が外山詩群を実証するにあたり旧小本街道だけでなく上米内、大志田ルート、釘の平ルートをくまなく歩いていた事を聞き、歩いた場所・距離・時間の感覚が私にもわかるので「ホンに、たんまげだ(ビックリした)」の一言でした。

先生が外山で滞在し寝泊まりしていた場所は「葉水」の空き家になった旧郵便局で、向かいにある藤盛商店で食事していた事や、私が住んでいたのも「葉水」で藤盛商店からも近く、もしかしたら中学2年~3年生の私とすれ違っていたかもしれない事など、地元外山談義で花が咲き、賢治同様「外山愛に溢れている先生」が目の前にいました。すぐにでも外山にお連れし賢治談義をしながら私のお気に入りだった場所に案内したい。初めてお会いしたのに外山出身の親戚の叔父さんとお話しているような不思議な感じがしました。

池上先生が外山に興味をもった保阪嘉内に宛てた1通の手紙に魅せられ先生がとった行動。テーブルの上に地図と文献と年表を広げあれこれ推理想像するのではなく、現地に足を運んで、自分の目で見、聴き、肌で感じ、テーブルの上では思いつかない事を、発見をする「フィールドワーク」を先生から教えていただきました。

私が「まさに刑事ドラマの現場百遍『事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!』と同じで『宮沢賢治の世界はテーブルの上で起きてるんじゃない!現地で起きてるんだ!』ですね。」と言うと先生はちょっと呆れた様に微笑んでいました。

先生の考え方や行動に感銘を受け、この時、私もフィールドワークに徹し実践しようと心に刻みました。ただ、「賢治の外山」と「私の外山」の違いは見つけられませんでしたが、これまでふるさとを褒められる事のなかったので、賢治を通じ先生から外山の素晴らしさを教えて頂いたことは今でも忘れません。

帰りの新幹線の中、先生を外山にお連れする事は出来無いにしても、様々なことを教えて頂き何かお礼がしたい。自分に何ができるだろう考え始めていました。帰宅し看護師である妻に今日の出来事を話し先生の病がどの様な病気なのか尋ねると、妻の顔が難しくなりながらも教えてくれました。後日、病院等で配られているこの病の小冊子を持ってきてくれ。病気の深刻さやご本人だけでなくご家族も大変である事を知りました。

(その10年後 平成20年。義父の表情がなくなり診断の結果、池上先生と同じ病と告げられ「エッ?」と思いましたが、池上先生にお会いしていた事で、動揺も恐れも不安もなく。義父を前向きに受け止められたのは先生のお陰だと思っております。ありがとうございました。)

先生が動ける元気なうちに『宮沢賢治 心象スケッチを読む』の朗読劇を年内に舞台化しよう。製作期間としてはかなり強行で『外山開牧百年史』の解読もまだでしたが公演する事を決め、学んだフィールドワークを実践するべく三浦貞夫先生宅にお邪魔しました。

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